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2017年7月31日月曜日

柄谷行人「憲法の無意識」


柄谷行人「憲法の無意識」岩波新書、2016。  

  まず冒頭で、日本国憲法の9条については、いくつもの謎がある、と著者は書いている。第一に、世界史的に異例のこうした条項が、戦後日本の憲法にあるのはなぜか。第二に、それがあるにもかかわらず、実行されていないのはなぜか。第三には、もし実行しないのであれば、普通は変えるはずなのに、まだ残されているのはなぜかと。

  こうした謎と関係があるのか、憲法9条は今や時の首相によって、来年にも改正のための国民投票にかけられようとしている。しかし著者は、国民投票をしたら改正派は負けるだろうと書いている。なぜなら、憲法9条は、国民の「無意識」になっているから、というのである。「国民投票も、何らかの操作・策動が可能であり、世論を十分に反映するものとはいえません」。しかし国民投票は、争点がはっきりしている以上、投票率も高いので、「無意識」が前面に出てくることになる。「選挙で勝っても、国民投票で敗北すれば、政権は致命的なダメージを受けることになります。『解釈改憲』すら維持できなくなってしまう可能性もある」。だから、これまで自由民主党は、選挙でも9条改正を争点にしてこなかったのだと。

  著者の「憲法9条は日本人の集団的な超自我であり文化である」という主張は、理屈の上では、納得する人は少ない気がする。議論の中で援用されるフロイトの超自我の考えや文化論は、あっさり理解するにはどうも骨がありすぎる。しかし、著者が言うように、憲法9条が残ってきたのは、それを人々が意識的に守ってきたからではない、というのも確かだろう。「無意識」だからこそ、説得や宣伝によっては操作ができない。護憲派が9条を守っているのではなく、護憲派こそ9条に守られている、という指摘には、逆説的だが説得力を感じる。そこから、9条に関する議論は、「憲法の先行形態」、「カントの平和論」、「新自由主義と戦争」へと展開していく。

  そもそも日本人にとって、先の戦争の悲惨な記憶が、忘れがたく深いものになっていることは、間違いないと思う。著者は、「憲法の先行形態」として、江戸時代の徳川体制を取り上げている。そして、明治維新以後日本が目指してきたことの総体に対する人々の悔恨が、フロイト的な「無意識の罪悪感」と結びついたと考えているようである。

 又、「カントの平和論」については、ヘーゲルの理性の狡知に対してカントの自然の狡知を対照させて、フロイトの先取りであると位置付けていて興味深い。「攻撃欲動(自然)を抑えることが出来るのは、他ならぬ攻撃欲動(自然)です」という著者の指摘は、そもそも戦争や攻撃欲動について、我々が意識の上で何を知っているのか、と考えさせられる。

 「新自由主義と戦争」では、世界史的に見て現代がどういう段階にあり、どんな展望があるか、が語られている。著者は、交換様式から社会を捉え、更に世界システムの諸段階を設定する。その中に、カントの平和論や憲法9条を位置付けて、その意義を探っている。1990年以後の世界は、1870年以後の帝国主義の時代に類似しているとの見立ては、実に興味深い。経済成長や資本蓄積の終わり、世界資本主義の限界、一方で資本市場における資本の死にものぐるいの競争。その中で、世界戦争の可能性もあると言うのだ。

  憲法9条の改正を巡って、今後、国会の発議、国民投票へと進む中で、議論が更に活発化するだろう。その際、本書は、どんな役割を果たすのだろうか。私自身は、本書で示されたような人間や社会の本性の考察が、憲法を考えるには不可欠だと改めて考え始めた。