ラベル

2014年12月29日月曜日

音楽編 雪が降る街



僕たちがちょうど高校生だった頃にユニコーンは解散し、その後ベストアルバムが発売された。僕自身は彼らの最盛期を知らず、むしろベストアルバムの頃に友人から教えてもらってその存在を知った。基本的に中学校までは音楽に興味はなかったから(ゲーマーだったのだから)、基本的にすべての曲を知ったのは高校生以降ということになる。

そんな中、今でも年末になると、ふと口ずさんでしまう。特色ある出だしの音楽もさることながら、「だーかーら、嫌いだよ♪」は考えてみると使い勝手が良い。何が嫌いなのかとちょっと身構えてしまうが、その後に「こんな日に出かけるの」というところで、なんというか、ほっとした感じもする。寒い日に出かけるのは正直勘弁してほしい。人がやたら歩いているのも嫌なことこの上ない。今も昔も、わざわざ初詣に行く気はない。

僕の街には基本的に雪は降らなかったから、その雰囲気がどういうものか、正直よくわからない。ただ雪は降らずとも、師走の何となくせわしない雰囲気や、お正月に向けて帰省する人たちの流れはよくわかる。世の中はいろいろあるから、どうぞお元気でという感じだ。

大学生のときはあまり帰省することもなく、ちょうど元旦の朝、初日の出を見がてら近くの排水溝に釣りに行っていた。とても寒い日で、正直釣りどころではなかったが、誰もいない長く続く排水溝をトローリングしながら(といっても水自体はそれほど汚いわけでない、調べたわけではないが)、そろそろ日の出かなと思っていた。日の出を見た後はシーバスも釣れないし、そのまま吉野家かどこかで朝ご飯を食べて帰った。あのときはさすがにこの曲が頭の中で流れていたとは思えないけれど、釣りつながり、のようなものはあったのかもしれない。

それからずいぶん経って、ちょうど子どもが生まれた年の年末、それまで帰省していた妻と子どもが自宅に帰ってきた。正直どう対応したらいいかわからない、仕事も忙しくこの先どうしようかと思った記憶がある。そんなとき、確かかまぼこがないとか言われて夜にスーパーに買いに行った。寒い中ちょっと一人になって、この曲が頭をよぎったかどうだったか。なんにせよ、これもまただんだんと懐かしくもなる。あと、ついでに思い出せば、あのとき確か携帯を持って外に出て、寒いねぇとtwitterでつぶやいた気もする。車が来ないことを確認して道路を横切ったことも。

2014年12月22日月曜日

音楽編 ミラーボールはキラーボール

音楽編でもいけるかなと思いながら昔話を思い出そうとしたのだが、なかなかうまくいかない。しかし、いくつか方法があることにふと気づく。何度かやったことはあるが、ここにまとめる記事として試してみよう。ちょっと批評的になってしまうのは問題だが。。

たまたまネット上でゲスの極み乙女の記事を見つけた。変わったバンド名だと思っていたが、なかなか人気があるらしい。そこでというわけでyoutubeを探していると、彼らの曲に「ミラーボール」(実は後述するように、歌詞を探すと、ミラーボールではなく、「キラー」ボールであった。なんということか。)という曲を見つけた。テンポのいい曲だと思うとともに、ミラーボールと言えば、といくつか遡って思い出した。THE YELLOW MONKEYの「MY WINDING ROAD」と、井上陽水の「夢の中」へである。ワインディングロードには「ミラーボールがまわり続ける」という一節がでてくるし、夢の中へはミラボールはでてこないが、「そんなことより、僕と踊りませんか」とでてくる。



ゲスの極み乙女の曲は今風(2014年)というか、ラップもジャズも織り込んで凝っている。男性2人女性2人のバンドというのも、一周まわって新しい気もする。そんな彼らの「ミラー」ボールを聞いていて、あ、と思ったのだが次の一節だった。

「たったいまわかったんだ キラーボールがまわる最中に 踊るのをやめなければ 誰も傷つかないんだって」

そうだと思った。踊るのをやめなければ、誰も傷つかない。踊ることは現実というみんなが傷つくことのある世界からの逃避だ。踊り続けている限り、僕たちは傷つかない。傷つかないために踊るのだ。だがそれは、ミラーではなくキラーである。

そして思い出した。イエモンもミラーボールを歌っていた。彼らの歌詞は、キラーではなく、まさにミラーボールだった。彼らにとって、ミラーボールはディスコの世界の象徴だが、それはマイ・ディスコであり、自分たちが向かうべき未来ですらある。彼らは最後にこういう。

「新しい時代に ミラーボールは まわりはじめる」

マイ・ディスコでは、世界の鼓動すら感じられる。僕たちと世界はミラーボールを象徴にして一体化している。踊ることの躍動感は、現実からの逃避ではなく、むしろ現実を動かす力でさえあるようにみえる。イエモンに当時感じていた魅力は、厳密には少し違うと思うけれど、様式美のようなものだった。リッチー・ブラックモア、といえばいいだろうか。



時代の変化だろうか。そう思った。そして最後にもう一つ思い出したのだが、夢の中へだった。いうまでもない時代の名曲であり、多くの方にカバーされた。僕はカバー曲の方は記憶がないが、井上陽水が自分で歌っていたのは聞いたことがある(CDかなにかで)。

「それより僕と踊りませんか 夢の中へ 夢の中へ 行ってみたいと思いませんか」

この曲にはディスコもミラーボールもでてこない。今から聞けば、古き良き昭和の曲という感じすらする(麻薬を探している警察とのやり取りという解釈もあるらしいが、曲としては、男女を考えた方が歌いやすいとは思う)。けれども、歌われている歌詞には何か通底するものがある。探し物が見つからない現実を捨て、そんなことよりも踊ったらどうか。きっとゲスの極み乙女ならば、その次にこういうだろう。「踊っていれば、誰も傷つかないー」

3者を比較したとき、夢の中へとキラーボールは、どちらも現実よりも虚構としての踊りの世界を肯定しているようにみえる。一方で、ワインディングロードは、現実と虚構が一体化している。あるいはゲームの世代で書いた話を思い出せば、シンクロしていると言ってもいいのかもしれない。

その一方で、夢の中へは虚構に対するほのぼのとした親近感を感じるが、キラーボールのそれは殺伐としている。ラップ調に歌われる音楽のせいかもしれない。えーいやけくそだっという感じすらする。おおよそミラーボールではなくキラーボールなのだから、単純な肯定感はない。

もっといえば、夢の中へが興味深いのは、踊るのをやめたとき、見つかることも良くある話だといわれている点である。虚構が現実に与える影響を素直に認めている。けれどもキラーボールは違うようにみえる。ワインディングロードのように虚構と現実が一体化しているわけでもない。虚構は虚構で切り離されている。でもその中にいれば!その思いを感じる。

時代の変化だろうか。考えてみると、3者の名前自体がすでに象徴的だ。陽水は柔らかいいい感じ(本当の意味はもちろん知らないが)で、個人名だ。通常の個人名とはもちろん違うが、雅名というか、カッコ良くも思う。これに対して、イエモンは自虐的だ。海外の人からすれば、自分のことをイエローモンキーっていうの?と感じないだろうか(と、昔誰かが言っていた気がする)。そして最後に、ゲスの極みである。もはや言葉がない。イエモンは、それでも逆にかっこよさを感じたが、ゲスの極みはゲスの極みである。どうしようもない。しかも、「乙女」だというのだからすごい。なんだかわからない。

夢の中へは1973年だという。マイワインディングロードは1998年らしい。最後にキラーボールは、2013年である。40年の時間を感じる。その中で考えると、僕がリアルタイムで聞いたのはマイワインディングロードである。夢の中へは、もはや古典という感じだった。キラーボールはこうして今知った曲だが、僕にとってはもはや新しすぎる感すらある。もっと聞いてみたい。

youtubeですべての音源がPV付きで聞ける。いい時代だ。これも、時代の変化だろうか。

2014年12月15日月曜日

音楽編 ラストシーン

ゲームの世代を数年前に書いたので、その続きでもと思いながら今日までなにもせずだったのだが、そういえばと思い立ってきっかけというか備忘録がてら。音楽で書けるのではと思っていた次第。


ラストシーン、布袋寅泰、1996年。

僕はこの年に大学入試があり、その日、試験の結果を待っていた。受かったかどうか正直よくわかっていなかったが、お昼ぐらいに、幸いなことに合格の一報を受け取った。その後僕が喜び勇んで向かったのは、自転車で40分ぐらいのパチンコ屋だった。

そんなに大きな喜びがあったとは思えない。ただ、受かったらパチンコ屋にいこうと思っていたのは確かだ。パチンコ屋の名前は、それこそパチンコ「大学」だったかもしれない(その日、どのパチンコ屋に行ったのか、もう思い出せない。)

大学に行ったとすれば、ピンクパンサーを打ったのだろう。そうでなければ、おそらくニューパルサーを打ったのだろうと思う。どちらも山佐を代表する機種だったはずだ。リーチ目の類いもまだよくわかっていなかったが、それでも毎回7を目押しする強引な打ち方で(それは結局、DDTと言えたかもしれない。懐かしい)、少し勝ったのではないだろうか。そこで景品としてもらったのが、布袋寅泰の『King & Queen』だった。

アルバム自体は、ちょうどそのころに発売されていたことを知っていた。彼の歌の思い出についてはまたおいおいと思うが、レンタルするよりは買ってしまおうと思っていた記憶がある。

印象深い曲がたくさん入っていたが、今でも口ずさんでしまうのは、ラストシーンだろうか。当時は暗い曲だとしか思わなかったが、なんというかテンポがいいという感じはある。そして、今口ずさめば、当時のことを少し思い出す。といっても、別に誰かとの思い出ではなく、ただ僕一人でパチンコをしていた、そんなセピア色のラストシーンをである。

2014年12月7日日曜日

時計ではない

2014.12.6 時計、ではない

自由な発想が大事。左下から、アナ、エルサ、男の主人公?、レインディア。