ラベル

2013年12月3日火曜日

パズドラでゼウスに挑戦してみる

このところパズドラで遊んでいると以前書いたが、ミイラ取りがミイラになった感がある。暇な時間を見つけてはガリガリとやっていたら、だんだん強くなってきた。

もっと強いダンジョンもあるのだが、一つの目標は「ゼウス降臨」をクリアしすることであるらしい。なるほど、挑戦してみたくなる気持ちもよくわかる。目標をうまく設定しながらゲームに引き込んでいく仕組みは素晴らしい。よくできたゲームだと思う。

というわけで、無課金でここまできた。ネットの情報に従い、まずは「ヘラ降臨」をクリアしてヘラを仲間に加える。本来であれば、後定番のキャラがいくつかいるのだが、仲間にいないものは仕方がない。ネットでいろいろ探してみると、「キングワルりん」で強襲できるような話がある。これは今からでも作れそうだというわけで、急いで2つほど合体で作る。

明らかに手作り感漂うチームだが、魔法石もこのところのイベントでたくさんもらえたので余っている。挑戦しどきであろうと判断した。これでも、10回ぐらいコンテニューすればいけるのではないか。。。

フレンドに覚醒ゼウスを加え、攻撃力は6倍に上がる。後はキングワルりんを5階ダンジョンの内、4階と5階でそれぞれ使い、瞬間火力を18倍と、ゼウス相手には闇属性で36倍にしたらどうかというわけである。

・・・しかし思い通りにはいかないもので、3階で一度全滅する。どうして負けたのかよくわからない。

一度目のコンテニューを行い、4階へ向かう。ネットでみていると、実質的な最難関はこの4階のキマイラ2匹らしい。しかもターンがずれており、毎ターンコンテニューとなる。キングワルりんのエンハンスで一発かと思いきや、まったくそういうわけではなかった次第。ここで10回コンテニューの羽目となる。

3回目ぐらいのコンテニューでどうしようか本当に迷ったが、まあやるだけやってみようかという覚悟ができた(笑)。くだらない話だが、この意思決定プロセスは再考に値する気がする。

ようやく5階のゼウスにたどり着く。ここは定番でゼウス/ヘラ/ヘラのスキルを使って400万程度のHPを100万程度にまで一気に削る。後は、ヴァンパイアとキングワルりんのスキルを使って勝負をかけるというわけだ。ヴァンパイアのスキルが溜まるのに少し時間がかかったせいもあり、2回コンテニュー。そして、勝利。

まあ、想定の範囲内ではないだろうか。このチームにしてはよくやったに違いない。後はドロップの運がもう少しよければ、想定の範囲内に収まったかもしれない。



パズドラをやっていて思うのは、勝負するときのドキドキ感があるということだ。僕たちが慣れ親しんだゲームには、リセットがあった。何度でも勝負できたから、勝負そのものへのドキドキ感はあまりなかったような気がする。対して、パズドラにはリセットがない。スタミナという制約がある中での一回勝負である(もちろん、溜まればまたできるし、課金すればすぐにでもまた挑戦できるが)。この仕組みは、かつてのWizardryにも通じるが、面白いと思う。当時と違うのは、またいろいろな情報がネット上に出回っていて、それを通じてあれやこれや想像をめぐらすことができるということだろうか。

もう一つ、このネットの情報に合わせて面白いと思っていたのは、上のようにパズドラの画像がたくさん出回っていることである。SS:スナップショット機能を使って簡単に撮影し、アップロードできる。ゼウスを倒した瞬間を撮っておけばよかったと後で思ったが、これはこれで面白い。スナップショットの今風の使い方かもしれない(これまで、何に使うのだろうと思っていた)。

パズドラ論は可能かもしれない、ふと思った。

2013年11月17日日曜日

天命つきるその日まで

天命つきるその日まで アンパンマン生みの親の老い案内 (アスキー新書)
やなせたかし『天命つきるその日まで アンパンマン生みの親の老い案内 (アスキー新書)』、2012

 著者は、アンパンマンの作者として有名である。今年(2013年)の9月、浜松市美術館では、「やなせたかしとアンパンマンのキセキ展」が開催されていた。その折りに売店でこの本を購入したが、まさか、その翌月(2013年10月)に亡くなられるとは思わなかった。94歳、まさに天命つきるその日まで、人生を全うされたのだと思う。

 幼い子供たちに、アンパンマンは、大変な人気がある。孫の通う保育園では、行事の際、アンパンマンの着ぐるみを来た職員が登場して、子供たちと一緒に写真を撮るのが恒例になっていた。なぜ、アンパンマンにそんなに人気があるのか、ちょっと不思議な感じもする。昔から子供達のヒーローは存在して、かつては月光仮面、鞍馬天狗、エイトマンなど、その後ウルトラマン、仮面ライダーと、ヒーローの変遷があった。その中で、アンパンマンは、どこか違うような気がする。余り、ヒーローらしくないのだ。

 この本を読んで、アンパンマンの人気の秘密が、少しだけ分かるような気もした。又、94歳まで生きて現役で活躍を続けた人物の、思いや経験の一端に触れたような気がした。印象に残った点をまとめると、こんな具合だ。

①著者にとって、人生は想定外だったと書いている。まず、65歳くらいで終わりだと思っていたのに、その頃から仕事が増えた。70歳ころから、アンパンマンが人気に。75歳で妻に先立たれて、これで終わりと思った頃、アンパンマンミュージアムの建設や自伝「アンパンマンの遺書」の出版の仕事が入った。この二つを通じて元気になり、気が付けば90歳を過ぎていた、ということらしい。「長寿の秘密なんてあれば、ぼくが聞きたい」と書いているのが可笑しい。一方で、「虚勢を張って元気そうに振る舞うということが、ぼくの命を支えているのかもしれない」と言う。

②著者は、天才の仲間たちを大勢見てきた。手塚治虫、いずみたくなど、確かに錚々たる人たちだ。いずれも、著者よりずっと早くに亡くなった。一方で「才うすいぼく」、と彼は繰り返し書いている。人生最後の言葉は、もう決めていると言う。「ごめんなさい」と「ありがとう」だと。平凡だが、自分は平凡だからいいいのだ、と言う。

③著者は、巨匠になるまい、と思ってきたそうだ。若い頃、いわゆる巨匠が、そう呼ばれることで活動が制約される、と嘆くのを聞き、自分はそうなるまいと思ったそうだ。その結果、今でも著者は、周囲から軽んじられる存在だと言う。作品を無料で製作依頼されたり、借金の申し込みがやたらあったり。しかし、自分は巨匠になりたくない、気楽にやりたいのだから、と納得していると言う。

④万事に謙虚な著者であるが、この本では自慢げに書いてる箇所が少しある。そのひとつは、「世界中で、原稿用紙三枚の作品を、こんなにたくさん書き続けてきたのは、僕以外にはいないと思う」という箇所。原稿用紙三枚とは、長く続けたラジオ番組の原稿だったり、メルヘンだったり、最近の新聞連載だったり。そのラジオ番組の原稿の中に、アンパンマンの原型のようなものもあったのだそうだ。多分、アンパンマンに登場する驚くほど多彩で膨大なキャラクターも、そうした原稿用紙三枚の蓄積から生まれたのではないか。もっとも本人は、自慢の後で、「自分では三枚作者であることに妙に感動してしまった。三枚という所が、自分に似合っていると思った」と付け加えていて、それも可笑しい。

何のために生まれてきたの? やなせたかし 明日をひらく言葉 (PHP文庫) 100年インタビュー やなせたかし [DVD]

2013年10月31日木曜日

社会を変えるには


小熊英二『社会を変えるには (講談社現代新書)』、2012

 「社会を変える」というテーマは、ここ30年以上、余り聞かなかった。だから、この本を書店で見掛けて、おや、と思った。

 取り上げられた話は、いくつかに分かれる。章立てに合わせてまとめると、こんな具合だ。現在の日本社会の位置(第1章)。先進国の社会運動の変遷(第2章)。戦後日本の社会運動の歴史(第3章)。代表を選ぶとはどういうことか(第4章)。近代の自由主義・民主主義の歴史とその限界(第5章)。異なるあり方への模索として現象学・構築主義・再帰性・カテゴリーの限界など(第6章)。現代日本で社会を変えるとは(第7章)。

 内容を羅列すると、複雑な話だと思われるかもしれない。しかし、この本の論旨は明快であり、主張もある意味で単純なものだ。まず、現代の誰しもが共有している問題意識は、次のようなものだと著者は言う。「誰もが『自由』になってきた」「誰もが自分の言うことを聞いてくれなくなってきた」「自分はないがしろにされている」。そんな状態を変えることが、実は誰にとっても「社会を変える」ことではないか、と著者は言うのである。

 話を人が聞いてくれないとか、ないがしろにされているなど無縁だという人もいるだろう。しかし、著者は、この思いは今や、首相も高級官僚も非正規労働者も共有する感覚だろうと言う。普通は、「社会を変える」ことは、政治運動をして権力を握り思いのままに政治を行えば可能だ、ということになろうか。しかし著者は、現代社会では中央制御室にあたるものがないので、首相だけ替えても変わらないと言う。更に、おとなしくしていれば何とかしてもらえる、という考え方はやめようと提言する。

 これらの主張は、当然のことながら、社会の現状認識を背景にしている。1970年代から、先進国はいずれも、工業化社会からポスト工業化社会に移行して行った。日本はその時期、先進国で衰退した製造業を肩代わりする新興国であった。社会全体に、規制と保護と補助金の網の目を巡らし、社会的にも政治的も安定状態が続いた。しかし1990年代に入ると、日本型工業化社会は機能不全となる。バブル崩壊後は、経済指標が低迷し、システム全体にガタが来た。そこで初めて、ポスト工業化社会に向けての模索が始まる。

 ポスト工業化社会の特色は、他でも今や多くのことが語られている。そのうち、この本で特に重視されているのは、イギリスの社会学者ギデンズの言う「再帰的近代化」という現象だ。これは、人びとが集団の規制から自由になり選択が増大するが、皆が自由になるので相手からも選択されることになり、互いに予測が立たなくなることなどを指す。その結果、村とか、労働者階級とか、失業者とか、高齢者といったカテゴリーが、ひとくくりの集団として成り立たなくなる。カテゴリーを増やしても、多様性に追いつけなくなる。

 再帰性には再帰性で対処しなければ、というのがこの本の骨子だと思う。それは、具体的には互いの対話を促進すること、政治も又公開と対話がコンセプトとなる。肝心なのは、対話を通じてお互いが変化し、新しい「われわれ」を作っていく、という点だ。そのためには、過去の成功体験を持ちこまず、個体論的な発想でなく関係論的な発想で、統一とか組織などを重視せずに、色んな人と話していくことが大切だと言う。結論は、「自分はないがしろにされている」という感覚を足がかりに、動きをおこしましょうというものだ。そして、他人と共に社会を作ることは、楽しいことだと結んでいる。

 歴史的な知識や、社会運動の理論や方法論まで、教えられることが多い本だった。


「辺境」からはじまる──東京/東北論 〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性 単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

2013年10月29日火曜日

パズドラでもしてみる

iphoneを持っていないのでパズドラはでできないと思い込んでいて、そもそも興味もなかったのだが、ipod touchでも考えてみればできるよなと思った。2ヶ月ぐらい前にダウンロードしてみて遊んでみると、最初はよくわからなかったが、だんだん面白くなってきた。

当然無課金でやるつもりで、今のところ初志貫徹である。ゲームが有利になる魔法石なるものが課金アイテムとなっているのだが、このところ会員数激増に伴うキャンペーンで魔法石が無料にもらえたりして、意外に助かっている。

ゲームの中身については別途攻略サイトでもみてもらえばいい。こういうゲームは正直始めてやったのだが、なんというか、いろいろと新鮮な感じがあった。僕が知っているゲームとは少し違うようだ。

なにより、ストーリーがあるのかないのかよくわからない(実はあるようだ)。基本的にはパズルゲームである。このパズルゲームの仕組みは、タッチパネルの性格をうまく利用していると思う。

ロープレというよりも育成システムを組み込んだという感じだろうか。キャラに愛着がわけば、頑張って育ててみようかという気にもなる。

だがそれ以上に個人的に印象的なのは、時間制限があったり、ゲリラ的に発生する特定ダンジョンの存在である。たぶん、このやりかたはオンラインゲームでは定番なのだろうけれど、今までオンラインゲームをやったことがない身としては新鮮だった。これをされると、常時ゲームをみておかなくてはならなくなる。

もちろん、ネットをみればダンジョン発生の時間帯等も告知されているから、それをみてゲームのタイミングを合わせることができる。しかし、これをやっていくと、いよいよゲームに生活を支配されている感じもする。20時にメタドラダンジョンが出てくるから、それまでに一仕事終わらせて空きをつくろうという感じである。

ゲームの進化を感じた次第だった。にしても、無料でできるのがいよいよすごい。

パズドラの破壊力―週刊東洋経済eビジネス新書No.15 パズル&ドラゴンズ(Puzzle & Dragons)

2013年10月20日日曜日

wordでグループ文書を作成して、複数ファイルを統合的に取り扱う

前々から、個別のファイルを統合的に取り扱う方法を探していた。具体的にいえば、本を書くという場合、一章毎にファイルを作った方が取扱いが便利なのだが、終盤になってくると、いちいち個別のファイルを開いて追記修正するのが手間になってくる。そこで、時に一章毎、時に全文まとめて処理できるような方法はないかなと思っていた次第だった。

高機能エディタ等にはそういう機能があるようだが、ワードを使っているのでどうもやりにくい。ワードをやめてしまえばという素晴らしいアイデアもあるが、なかなか、他の人とのやりとりを考えるとそういうわけにもいかない。

というわけであれこれ検索みたのだが、
あるにはあった。それが「グループ文書」なる機能である。


Word2010:既存のWord文書をグループ文書に挿入するには


だいたいこれでいけそうだが、macの場合は押したいボタンが出てこない場合がある。
まずは、①「表示」→「グループ文書」でいいようだ。
②アウトライン画面に替わるので、適当に目次を作る
③作った目次を洗濯し、ツールバーとして表示されている(であろうと思われる)「サブ文章の挿入」をクリック。
④ファイルを選択

こんな感じで組み込める。
レイアウトが全体的にずれたりするので、後は適宜修正すればよい。
これ以降はまだ試していないが、個別ファイルを修正しても同期されるのだろう。

少しこれで様子を見よう。

2013年9月12日木曜日

永遠の吉本隆明

永遠の吉本隆明【増補版】 (新書y)
橋爪大三郎『永遠の吉本隆明 増補版』洋泉社新書、2012

 1970年前後に大学生だった人(団塊の世代と重なる)は、大抵が思想家・吉本隆明を知っている。当時、私も大学生であり、彼の本を何冊か読んだ。やがて学生運動が下火となり、時代も変わって、その影響力も低下していったようだ。しかし、彼はその後も社会にしばしば話題を投げかけて、注目される存在であり続けた。2012年に亡くなると、新聞が大きく一面を割いて、追悼記事を掲載していた。

 この本の著者の橋爪大三郎も、やはり団塊の世代の1人であり、当時、吉本思想から大きな影響を受けたようだ。吉本の「共同幻想論」(1968、文庫版は1982)を読んだ感想を、橋爪は次のように言っている。「個人的な自意識とか人格性としてある状態-個人としてあるという状態-と、連続的な問題意識で、社会的な問題を社会科学の方法によって考えていっていいのだ、という感触を得た」。個人的なことと社会的なこととが、問題意識として連続しているという感触、それは、今となっては当たり前のことかもしれない。しかし当時としては、やはり画期的だったと私も思う。前衛の党が大衆を指導する、という話が、むしろ当たり前の時代であった。

 著者は、吉本思想の影響や意味を、以下のように異なったレベルで捉えていると思う。

①<団塊の世代への影響>この世代の吉本読者にとって、吉本は、「無教会派の司祭」の役割を果たしたという。団塊の世代の、その後の人生を説明しているくだりは、面白かった。吉本の徹底した反権力思想のお陰で、彼らは万能の批判意識を手に入れると共に、一方で全くの無能力の状態に陥ったというのだ。

②<日本社会の課題の引き受け>この課題とは、日本社会で自由な主体であることの困難さを、どう乗り越えるか、というもの。言い換えると、これは非西欧圏の国々が近代化を進める時に起きる精神的な混乱と、それを回復しようとする努力であり、普遍的で地球大のものだ、と橋爪は指摘する。吉本は、その課題を誰よりも徹底して引き受けたのだ。

③<文学や社会・国家についての理論的・方法論的な業績>まず「言語にとって美とは何か」(1965、文庫板は2001)では、「品詞」を自己表出と指示表出の関係から分類し、そこから言語表現を考察して、古代から現代までの文学を見通すフレームをつくった。オリジナルでユニークで、奇跡のような不思議な書物、と橋爪は言う。「共同幻想論」では、民話などいわゆる集合的無意識を、社会科学理論の文脈で意味を明らかにする作業を行った。更に、そこから権力や国家の起源を解明しようとした。2冊とも、全く独自に遂行されながら、世界に通用する業績であると橋爪は高く評価している。

 上の①~③のうち、②の<日本社会の課題の引き受け>が、最も「永遠の吉本隆明」というタイトルに関わってくるのだろう。吉本は、一貫して個人への徹底したこだわりと、普遍への飽くなき執念を抱き続けた。そのことから、彼は権力を徹底して否定する立場に立った。①は、結局そのことと関係する。橋爪自身は、権力の問題で、吉本の影響を脱するのに苦労したようだ。橋爪は、自由を肯定しつつ、むしろ自由という見地から国家の存在を肯定する。そこから、彼の独自の言語派社会学の構想が生まれたようだ。

 吉本が格闘した②の課題を次の世代が引継ぎ、人間や社会に関する認識を更に深める必要性がある、と橋爪は主張する。彼にとって、吉本は自分なりに考える勇気とヒントを与えてくれた、と言う。又、吉本思想と社会学の共通性の指摘も、刺激的で面白かった。

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫) 最後の親鸞 (ちくま学芸文庫) 吉本隆明

2013年7月1日月曜日

我関わる、ゆえに我あり

我関わる、ゆえに我あり ―地球システム論と文明 (集英社新書)
松井孝典『我関わる、ゆえに我あり-地球システム論と文明』集英社新書、2012

 宇宙や地球の誕生、そしてその後の経過を扱う本は、多分何冊もあるだろう。一方、人類の誕生や、その後の歴史を扱う本は、いくらでもある。しかし、この本のように、宇宙や地球の話と、人類の誕生やその後の歴史を併せて、一貫して説明した本は、余りないのではないか。宇宙や地球の話は自然科学分野の領域であり、一方の人類の歴史は、人文・社会科学の領域だからだ。

 著者は、地球や惑星を研究する自然科学者として、地球の起源や、大気、海あるいは生命の起源といったテーマを研究対象としてきた。本書の初めの部分には、研究の過程で地球はシステムだ、という発見をした経過が書かれている。このシステム的な考えが、自然科学から人文・社会科学に及ぶ一貫した考察を可能にしたのであろう。

 著者によれば、地球システムの構成要素は、大気、海、大陸などの性質の異なる物質圏である。それらに加えて、生物圏が、大陸地殻の表層や海の全体に広がっている。システムを構成するこれらの要素は、相互に関係して相互作用をしている。その関係性は、駆動力により物質やエネルギーが流れることで生まれる。駆動力は大きく二つで、太陽からの放射エネルギーと地球の内部にある熱である。本書を読む場合、本当はこの辺りの説明を、しっかり根本的に理解する必要があると思った。

 さて、この地球システムに、構成要素として人間圏を加えるのが本書のポイントである。この人間圏という概念を思いつくことで、文明を地球システムの構成要素として扱うことが出来たと著者はいう。文明を地球システムの一部として捉えると、農耕牧畜を開始したことや、産業革命により蒸気機関を動力として使うことの意味が、地球システム的に理解されることになる。およそ1万年前、現生人類は農耕牧畜の開始するが、その結果、それまでの生物圏の枠をはみ出して人間圏を作り出すことになった。その後およそ200年前の産業革命は、人間圏の内部に駆動力を持つことことを可能にした。そのために、人間圏は地球システムの枠をはみ出すに至った。

 この辺りは、本書では地球システムの構成要素(大気圏、水圏、地圏、生物圏、人間圏)の包含関係の変化として図示されていて、とても分かりかった。産業革命により、人類が駆動力を人間圏の内側に持ったことは、地球システムの物質循環やエネルギー循環を、自分たちの意のままに変えられることを意味する。エネルギー問題も環境問題も、この視点から見ると、確かにまるで違って見えてくる。(太陽光発電など代替エネルギー利用も、エネルギー問題を根本的に解決するものではない、と著者は書いている。)

 著者のこうした視点や考察を支えるのは、宇宙についての科学的知識の一方で、システム的な思考や、歴史についての知識や仮説である。それは更に、本書のタイトルである「我関わる、ゆえに我あり」に関わってくる。現生人類は、前頭葉の発達により、外部情報を基に内部モデルを作り上げる能力を持った。それが、抽象思考を可能にし、共同幻想を生み、人間圏を作ることが可能とした。その最先端が、科学という営みだ。科学の営みは、ビッグバンなど宇宙の起源、そして地球の起源まで明らかにした。宇宙にその認識の限界を押し広げる現生人類、つまり私たちとは一体何なのか、と著者は問うている。私たちの脳は、今や自らが立つ地球を俯瞰できる視点まで持ったということだろう。

松井教授の東大駒場講義録 ―地球、生命、文明の普遍性を宇宙に探る (集英社新書) 地球システムの崩壊 (新潮選書) 新版 地球進化論 (岩波現代文庫)

2013年5月30日木曜日

デザイン思考の道具箱―イノベーションを生む会社のつくり方

デザイン思考の道具箱―イノベーションを生む会社のつくり方
奥出直人『デザイン思考の道具箱―イノベーションを生む会社のつくり方』早川書房、2007年

名前は何となく知っていたが、本として読んだのは初めてだった。前段はあまり面白くなかったが、第4章あたりから非常に興味深い内容になった(6章以降はやはりトーンダウンを感じる)。第4・5章は、イノベーションを生むための具体的なプラクティスを提示していると思う。

師匠-弟子モデルを軸としたコンテクスチュアル・インクワイアリーといったやり方が面白い。調査相手を師匠だと思い、その師匠がなす事を徹底して真似して内面化していく。確かに、通常のマーケティング・リサーチにおいて、顧客のことを「師匠」だと思うことはほとんどない。顧客至上主義などといいながら、そもそも調査すらできていなかったわけである。

build to thinkのプロトタイピング思考もよくわかる。つくりながらでしか、考えることはできない。文章にしても、実際に書いてみないことには、何が書けるのかはわからない。これは、現実が思考実験の抽象度と決定的に異なる次元にあるからだろう。面積を持たない「点」は、しかし現実には面積や体積を持ってしか成立しない。

こうした手法は、本書で述べられているようにエスノメソドロジーやエスノグラフィーに重なるところがあるのだと思う。それゆえ個人的には、「この手法は哲学的には複雑な思考回路を要求するが、実践するとなると非常に簡単である(115頁)」というその間をもう少し詰めたい気もする。他のものも読んでみよう。

デザイン思考と経営戦略 『デザイン言語』―感覚と論理を結ぶ思考法 思考のエンジン

2013年5月25日土曜日

MacのWordのファイルがエラーで閉じられない。起動すると復活する。

人からもらったファイルを開いて修正したのだが、そこからwordの調子が悪くなってしまった。ウイルスというよりも、明らかにwordが壊れている感じ。

症状としては、ファイルを閉じようとするとエラーになり、エラーレポートを送信するかどうか聞いてくる。どうやってもエラーのままなので、ひとまずwordを強制修了させる。これでwordはひとまず閉じるのだけど、Lion以降、過去にちゃんと閉じなかったファイルは、次のword起動時にデフォルトで立ち上がる。で、仕方がないので閉じようとするのだが、同じエラーを繰り返すことになった。

他人の文章が毎回毎回立ち上がり、その度にエラーになるのは正直言って不愉快極まりない。どうやって消そうかと思案していたのだが、検索でかかったのはmicrosoftのページ。


Word for Mac のエラー:「Word 問題が発生したと閉じる必要があります」


機械翻訳されていて、よくわからない。やってみたのだが、Normal.dotmが壊れているわけではないみたい。回復せず。
次に見つけたのは、こちら。アプローチを変えて、最初の起動を止めてしまえばいいのではと思った次第。


Appleサポートコミュニティ:「以前のファイルが勝手に開く」
「$HOME/Library/Saved Application StateをCommand+Iで鍵をかければ再起動しても開かない」


あ!これこれ、と思ってライブラリの「saved application state」を開く。みてみると、…microsoft…というフォルダがいくつか作られている。・・・ロックをするのではなく、このフォルダ消してしまったらいいのでは、とふと思う。

・・・OK。解決しました。エラーを繰り返すファイルが立ち上がることはなくなった。

2013年4月30日火曜日

おどろきの中国

おどろきの中国 (講談社現代新書)
橋爪大三郎ほか『おどろきの中国 (講談社現代新書)』、2013

 この本は、3人の社会学者の対談である。3人のうち、橋爪が他の2人の質問に答える方式を採っている。これは、橋爪の前著「ふしぎなキリスト教」と同じである。これは、対談という形で読者への敷居を低くしながら、同時に本質的な問題に直接迫ろうとする、うまいやり方だと思う。内容は、四部構成であり、次のような内容になっている。

1 中国とはそもそも何か       2 近代中国と毛沢東の謎
3 日中の歴史問題をどうとらえるか  4 中国のいま日本のこれから

 まず、1の「中国とはそもそも何か」は、冒頭から中国社会の核心に迫ろうとするものだ。回答は、歴史に関連する。二千二百年前、秦による中原の統一が行われた。では、なぜ中国はそんなに古くから、広域の統一性を実現できたのか。それは、EUのようなものだ、と橋爪は言う。統一に先立つ春秋戦国時代においては、何百年にも渡って戦争が常態化していた。「不幸な時代を踏まえて全体がひとつの政権に統一されるべきだ、という人びとの意思統一ができあがった。この意思一致が中国なのだと思う。」

 統一の後、始皇帝は諸子百家の中の法家思想を採用するが、彼一代で秦は滅亡した。続く漢は、今度は儒家思想を採用。そしてその後の王朝は、儒教、道教、仏教などを取捨選択した。時々の統一政権は、それぞれ統治イデオロギーや政策オプションを選択できたのである。つまり、政治的統一が根本で、統治イデオロギーや政策オプションは選択の対象という順番になる。「ここに中国の本質がある」と橋爪は言う。

 そこから、2の「近代中国と毛沢東」の問題が浮上する。かつて、どこよりも早く、広域の統一性を実現できた中国が、近代になって諸外国の侵略を受けても国民意識が出てこなかったのはなぜか、という問題だ。それは中国の近代化が容易に進まなかったのはなぜか、という問題にとつながる。

 国民意識の出遅れについては、儒教がそもそも普遍的であり、民族を越えている点が大きい。一方、近代化とはヨーロッパ文明がその外側に影響を与えていくプロセス。すると、他の文明にとって近代化は容易に進まないのが普通だ、と橋爪は言う。中国、インド、イスラムには、根本教典のようなテキストがその文明の骨格を形成している。だから、ヨーロッパ文明を受容するには、とても時間が掛かる。日本の近代化がスムースに進んだのは、自分たちの考えや行動の規範となるテキストが存在しないから、と橋爪は指摘している。

 3の日中問題、4の現状分析や日本のあり方などは、1と2の認識を踏まえて、非常に明快で奥行きの深いものになっている。そして、中国に関する理解が、そのまま日本や私たち自身に関する考察に結びついていることが、印象深い。

 又、中国に関する考察が、社会学や世界史の常識を、改めて問い直すものとなるという問題も、繰り返し取り上げられて、理論的にも興味深いものだった。そこから、「おどろきの中国」というこの本のタイトルも出てくる。中国の核心に迫る重要な手掛かりが沢山提示されていて、まさに中国理解への格好の入門書といったところであろう。

 私自身も、この本に触発されて、松岡正剛「白川静-漢字の世界観-」(平凡社新書)白川静「孔子伝」(中公文庫)を読んだり、マクニール「世界史」(中公文庫)を読んだり読書が広がりつつあるのは、実に有り難い事である。

白川静 漢字の世界観 (平凡社新書) 孔子伝 (1972年) (中公叢書) 世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)

2013年4月28日日曜日

天地を喰らう

ちゃらーん♪ちゃらーん♪ちゃらーん、ちゃっちゃっちゃーん♪

ということで、そういえば思い出した天地を喰らう。
三国志は好きだったが、ずいぶんと独特なゲームだったと思う。

たぶん2の中で、呂布が劉備を裏切って言う一言が秀逸。

「やっぱり、自分で天下を取ることにしたよ」

史実では、たぶんその前に呂布は死んでいる気がするから、まさに天地を喰らうらしいストーリー。結局呂布は負けてしまうわけだけど、どこかでそう言いたい気持ちはよくわかる。

呂布がどういう人だったのかは知るよしもないが、ゲームの世界から言えば、カレほど魅力的な人は相違ない。三国志最強といわれ、しかし同時に裏切りの人と呼ばれ、物語の前半で消えていく。いったい彼は、何であったと言えるのだろうか。そんなことをふと思った次第。

三国志 (1) (吉川英治歴史時代文庫 33) 三国志 8巻 一騎当千 呂布奉先 ~DVD裏ジャケver.~ (1/7スケール PVC塗装済み完成品)

2013年4月17日水曜日

KDP無事刊行の運び。

会崎秀図『われらゲームの世代 デジタル・ノスタルジアの未来』kindle版、2013年

おかげさまで、無事刊行の運びとなりました。
epub上に問題があるかもしれませんが、もし何かあればご一報いただければ幸いです。

「本書では、昔のゲームを語りつつ、当の「ゲームを語る」ということがどういう意味を持つのかを考えていきます。僕たち(特に僕自身は30代半ばです)は、総じて「ゲームの世代」といえると思います。その意味するところは、ゲームが好きで、ゲームをしながら子ども時代を過ごしてきたというだけではなく、今や僕たちがゲームを語れば、それ自体が自分たちの半生を語ることになってしまうということです。ゲーム=世代、人生になっているということが、良くも悪くも大事な点です。 けれども、考えてみれば、こうしてゲームと世代や人生がくっついてしまっていることがどういう意味を持っているのかについては、これまであまり考えられてこなかったように思います。ゲームを批評したり、ゲームが好きだという人はたくさんいても、こうしてゲームを語り、ゲームに関わることが、今の僕たちにとってどういう意味があるのかについては、何となくノスタルジアだという以上にははっきりとしていないと思うのです。
 本書では、ゲームを実際に語ることによって、単なる過去を懐かしむノスタルジア以上の意味があることを示します。ゲームというデジタルな世界は、それ自体がバーチャルであるが故に、同じくバーチャルといえるノスタルジアと相まって、他でもありえた可能性を強く提示します。その可能性は、同時に、未来への指針です。僕たちは、ゲームの力を通じて、新しい一歩を踏み出すことができるのではないかと思うのです。」

2013年4月16日火曜日

KDP続報

はやいもので、おそらく24時間経たないうちに完了の連絡が来た。
おぉ、という感じだが、どうも表示画像がおかしい。。。
修正アップロードしてみたのだが、
改めて再チェックになるのか、ページそのもののデザインは今のところ変化無し。

画像も1メガ切っていたのだが、それでも駄目か。。しばし待ち。


2013年4月15日月曜日

キンドル・ダイレクト・パブリッシング

忙しいことこの上ない今日この頃だが、書籍化もせねばと作業をしてみた。ジセダイに投稿もしてみたのだが、何のリアクションもない次第(当たり前だろうけれど)。というわけで、このご時世だし、自分で出版してみようと。 


ジセダイ 新人賞投稿
われらゲームの世代


最初に目にとまったのは、最近オンデマンドを始めたというMyISBNだった。
これはいい。便利だと思ったのだが、表紙を作って行き詰まった。
うまくアップロードできない。。。
考えてみれば、価格も結構高めに設定する必要があるし、最初から電子書籍一本にしたらどうだろうかと思い直したのだった。

電子書籍データがPDFならば簡単なのだが、どうもepubが必要になるらしい。これがよくわからない。ネットで検索した結果わかったのは、どうもepub=zipであり、その中身はhtmlファイルらしい。どうやって作るのだろうと思ったのだが、自動でテキストファイルをepub化してくれるサイトを見つけた。


ひまつぶし雑記帖


すばらしい。これまでの原稿をざくっとまとめて、一瞬でepubが出来上がる。画像の処理などは、一度型ができれば手作業で入れ替えていける。ホームページを作る要領と同じだ。
epubをzipで解凍し、中身を修正する。ついでに要領がわかってきたので、表紙もかっこよくデザインしてみる。その上で、改めてzipにして圧縮し、拡張子をepubに戻す。

・・・のだが、zip圧縮に際して少しこつがいるらしい。minetypeについては、無圧縮で処理せねばならないという。何とも面倒な話だが、7-zipが使えれば楽と言うことで、ここはwindows上で処理をする。こちらも先のサイトに書いてあって助かった。

epubファイルができあがり、ようやく、キンドル・ダイレクト・パブリッシングへ登録を試みる。あれやこれや記入し、最後にepubをアップロードするのだが、どうもうまくいかない。。。エラーになる。

探してみると、mobiとかいう形式に直した方がいいというような説明もある。kindle previewerやらkindlegenやらをダウンロードして利用してみるが、うまくいかない。そもそも、kindlegenなんてコマンドラインじゃないか。成功と言われているのにプレビューできないとはどういうことなのかよくわからない。

正直あきらめかけていたのだが、epubのまま、最後にもう一回アップロードしようと思ってやってみると、支障なく成功。なぜさっきは駄目だったのだ。。。

金額も設定し、別に儲かるわけでもないだろうから、ワンコインで100円でどうだろう。35%印税だから、1万部売れれば35万円だ(笑 無事出版されたら、がんばって宣伝でもしよう。
こんな感じで、予定通り行けば、キンドルストアに並ぶはず。。。(うまくいったら、他のサイトでも売りに出そう。)

2013年4月7日日曜日

数学ガール フェルマーの最終定理

数学ガール フェルマーの最終定理 (数学ガールシリーズ 2)
結城浩『数学ガール フェルマーの最終定理 (数学ガールシリーズ 2)』ソフトバンククリエイティブ、2008

一冊目に続き、読み終わった。後半の難易度は、はじめてきく話ばかりで、正直ついていけない。前回同様、一度ぐらいは何となく話は聞いたことがある、知っていると言う状態で、その理解を深めるという書籍だろうと思う。個人的には、フェルマーの最終定理、その証明の難しさは際立った。

しかし証明そのものはわからなくとも、数学とはこういうものなのだと言う感覚はつかむことができる。特に前段のある程度理解できる箇所を読みながら思うのは、昔、自分自身もこういう手続きをいろいろと考えていたということであった。

ただ、決定的に異なっていたのは、当時、僕にはその意味を教えてくれる人がいなかった。行き詰まった証明手法について、しかしそれがどういう意味を持っていたのか、気付かないままに何をなそうとしていたのかは結局闇の中だった。素数の意味も、偶奇を調べるという方法も、それが何であるのかはわからないままだった。もちろん大半は言い訳だが、教える人に恵まれていなかったということだろう。

前回に続き、複素平面は特に印象深い。少なくともこのアイデアを習った記憶はない。理系ならば当たり前かもしれないが、この座標を使えば素数すら砕くことができる。数学は面白いと久方ぶりに思った。

さて、次はゲーデル。こちらはざっくりと証明方法を聞いたことがある。理解できるかどうか。

数学ガール フェルマーの最終定理 1 (コミックフラッパー) 数学ガール ゲーデルの不完全性定理 (数学ガールシリーズ 3) オイラーの定数ガンマ ―γで旅する数学の世界―

2013年3月20日水曜日

DNAでたどる日本人10万年の旅

DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?
崎谷満『DNAでたどる日本人10万年の旅―多様なヒト・言語・文化はどこから来たのか?』昭和堂、2008
 
 そもそも、DNAで日本人の10万年をたどることが可能だということが驚きである。「DNA多型分析は、確実な生物学的な指標として過去のヒトの移動を追跡することが可能である」と、著者は最初に書いている。そして、現生人類のアフリカでの誕生、次いで一部のグループの出アフリカ、更に世界各地への進出と、実に壮大な話にすっかり圧倒される。しかし私の場合、本を読み進めて行く際に、内容を理解するのにかなり手間取った。私が持っている先入観が、多分理解の障害になったと思う。原始・古代に関する予めの先入観が、この本ではぐらりと揺さぶられる。

 この本で用いられているDNA多型分析は、男性系列で繋がるY染色体に関するものである。10年くらい前に、世界中の男性から集められたY染色体多型の分布が調べられたらしい。その結果から、現生人類は9万年くらい前にアフリカで誕生したと推測される。(女性の系列で繋がるミトコンドリアDNAからの推測では20万年~14万年前らしい。)

 又、Y染色体多型の種類は、大別して五つのグループに分けられるようだ。うち、二つのグループはアフリカに留まり、残りの三グループがアフリカを出たことが分かっている。この出アフリカの三グループの末裔が世界に広がって、今日に及んでいることになる。この本では、特に男性のY染色体多型の分布を基に、日本列島におけるその特異性が強調されている。日本には、出アフリカの三グループすべてが到達して現存しているのである。

 この本に盛り込まれた内容は豊富であり、目次は次のようになっている。

第1章 日本列島におけるDNA多様性の貴重さ
第2章 多様な文明・文化の日本列島への流入
第3章 日本列島における言語の多様な姿
第4章 日本列島における多様な民族・文化の共存
第5章 多様性喪失の圧力に対して

 日本列島に、最初に現生人類が到達したのは、後期旧石器時代である。そこから、新石器時代に入り、縄文文化、弥生文化と、それぞれの時代に様々なグループが流入する。それらが、現在生きている日本人男性のY染色体多型にそれぞれ該当する。それらのグループのY染色体多型の分岐時期、そして大陸から日本へと到る移動経路も、おおまかに推測可能のようだ。各時代の民族・文化とY染色体とが、重ね合わされる。そして、各時代に流入したグループのY染色体が現存するということは、それぞれが日本列島では生き延びることができたということだ。

 一方で、各グループの大陸における移動経路には、今やY染色体の多様性が少ない。例えば、縄文文化の中心となったグループのY染色体は、日本でしか見られない。同じ系統のグループは、遠くチベット・ビルマにしか現存しないらしい。そこから著者は、東アジアにおける民族の存亡をかけた凄まじい戦争の歴史を想定している。日本列島には、大陸で生存競争に敗れたヒト集団が流入したというのだ。

 この本はY染色体多型を基にした分析だが、現在調査中であるらしい女性系列のミトコンドリアDNAの分布が明らかになると、更に新たな発見が生まれそうだ。こうしたDNA分析から日本人や日本文化を考える視点は、今後ますます重要になるだろう。

DNA 日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス) DNAから見た日本人 (ちくま新書)

2013年3月14日木曜日

数学ガール

数学ガール (数学ガールシリーズ 1)
結城浩『数学ガール (数学ガールシリーズ 1)』ソフトバンククリエイティブ、2007。 

オイラー展開にまつわる数学の証明を軸にした小説風の読み物。タイトルだけをよむと『もしドラ』系をイメージするが、中身は相当に数学的な証明が続く。恐らく読み手として想定されているのは、オイラー展開をすでに知っている人という感じだろう。

理系数学の知識がない身としては、途中の証明プロセスはよく分らないところが多かった。登場人物でいえば、テトラと同等か、彼女にも及ばない。とはいえ一方で、高校のころに勉強したような数学を思い出しながら、こういう授業をどこかで受けられていたら、もう少し数学の楽しさがわかったかもしれないと感じる。

抽象化された数学式は、証明の空間としてあるようだ。昔の授業のさいに、教師が延々と黒板だけに向かって式の展開やら証明を書き続けていたことを思い出す。だからなんなのだ、結果さえわかっていればそれで十分ではと、今でも、思うけれど、その証明の空間の楽しさこそ、彼らは本当は伝えるべきところだった。それは、自分が証明してみせるもののではなくて、その意味を伝え(たぶん、この力が、教師にはほとんどないのだろう。単純に、その才能はないから)、生徒を引っ張り込める空間とみるべきだった。

わからないなりにも、いくつか面白いところがあった。例えば、素数に1を含めない理由は、素因数分解の一意性が崩れてしまうからだという。なるほど、そういう理由かと思った。また、振動するようにみえる数式を回転として捉え直すとsinθやらcosθでの記述になるということも、新鮮だった。数学の初歩なのかもしれないが、引き続き、読んでみようと思う。

数学ガール フェルマーの最終定理 (数学ガールシリーズ 2) 数学ガール ゲーデルの不完全性定理 (数学ガールシリーズ 3) 数学ガール ガロア理論 (数学ガールシリーズ 5)

2013年2月25日月曜日

当事者研究の研究

当事者研究の研究 (シリーズケアをひらく)
石原孝二『当事者研究の研究 (シリーズケアをひらく)』、医学書院、2013

最近様々に注目を集めている当事者研究についての研究である。タイトルの通り、前段は当事者研究そのものではなく、当事者研究という研究の可能性を問うている。後段は当事者研究を行なってきた研究者の考察も含めて、対談が収められている。この領域は正直とても難しいという印象が非常に強いが、その分、論考はいずれも興味深い。

当事者研究というと当事者主権等も一つのテーマとして関連していると思われるが、ひとまずはわけておいた方がよさそうだ。当事者研究は、元々の契機からいうと、障害や問題を抱える当事者が、自らの問題を「研究」することを素直に意味している。その目的は、はっきりしないところもあるが、障害や問題の解決(通常の意味の解決はないとみたほうがいいようだ)がまずあり、その上で、その方法や成果について、当時者を離れて多くの人々にも示唆がある、とみなされる。

障害や問題の解決が最大の目的かどうかはっきりしないというのは、当の解決が通常の意味で理解される場合、それは研究というよりは治療と呼んだ方が良いように思われるからである。そういわないのは、それだけの理由があるからだ。と同時に、当時者を離れたその方法や成果の示唆について、それは二次的な成果であるというよりは、むしろこの点まで含めて重要な意味を持つと考えるところに、研究であることの意味と、合わせて、通常とは異なる解決の可能性が見出されている。研究するということは、すでに、自分の問題を自分の問題ではない形で取り扱う、ということが含意されているといえる。

一番印象的だったのは対談の一節。
「・・・当事者研究は、(幻聴障害という問題を)『幻聴さん』という形で外在化しつつも、それを自分の大事なものとしてまた自分の中に引き寄せてちゃんと抱えているんです。しかしそれは『持ちやすい形』にして抱えられているんですね。・・・研究という形で担われることによって、その問題自体が変質しているんじゃないか(163頁)。」

これが望ましい「解決」かどうかはまったくわからないが、、、しかし、研究という意味では、一つの方向性が提示されるように思われる。

本文でも書かれていたが、この当事者研究という方法そのものが、後はどのくらい一般の人々にも応用可能かというところも重要だろう。しかしもともとは「一人一研究」という企業の方法だったことからすれば、いろいろと汎用性がありそうだ。というよりも、この手の方法は、いわゆるトヨタに代表されるカイゼンやTQCのような気がする。

もっといえば、問題を自ら切り離し、対象化し、その上でそれを取り戻すという方法は、「科学」にも通底する気がする。もっとも科学の場合は、最後の取り戻すという段をほとんど止めてしまっている(あるいは、さっぱり分業化している)という点で、批判的な考察を行なうことができるのかもしれない。このあたりが、前段の研究者の狙いのような気もする。

べてるの家の「当事者研究」 (シリーズケアをひらく) つながりの作法―同じでもなく 違うでもなく (生活人新書 335) リハビリの夜 (シリーズケアをひらく)