ラベル

2012年11月30日金曜日

はじめての哲学史

はじめての哲学史―強く深く考えるために (有斐閣アルマ)
竹田青嗣・西研編著『はじめての哲学史―強く深く考えるために (有斐閣アルマ)』、1998

このところ、個人的に探している用語があった。「本質直観」と「現象学的還元」である。おもいがけず、その2つをきれいに発見した。15年ぐらいまえに『現象学入門』で読んだことを懐かしく思い出した。

はじめての哲学史ではあるが、いつ読んでも構わない。いつ読んでも、新しい発見がある。そういう意味では、哲学史というのもの自体が、「はじめての」とか、あるいは初学者のということではなくて、いつだって、意味を持つということなのだろうと思う。哲学というのは、多分そういうものだろう。

個人的にも思ったし、アマゾンの書評にも似たようなことが書いてあってそうそうと思ったのだが、僕にとってこの本は竹田青嗣=現象学を強く感じた。ただそれは偏っているというよりも、哲学史はひとつにそう読むことができるのだろうし、とても納得的であった(最初にそう読んでしまったのならば、よくもわるくも、そこから自由ではもうあり得ないとはいえるが。)

冒頭で述べられている言葉が印象的である。哲学は、直観補強型ではなく、直観検証型である。哲学だけではないと思う。直観補強型は、世界の外に目が向き、本当はありもしない虚構を集めてまわって一般性を獲得しようとする。どんなに集めようと、それはゼロだ。失敗するに決まっている。そうではない。気づいてしまったということ、感じてしまったということ、その理由をこそ探るべきだろう。それによって確からしさも生まれるし、「僕」も生まれる。

現象学入門 (NHKブックス)ニーチェ入門 (ちくま新書) 陽水の快楽―井上陽水論 (ちくま文庫)

2012年11月25日日曜日

第一旭と新福菜店

もう15年近くなるが、学生の頃以来、京都のラーメンといえばこの二つだ。京都駅に近いということもあり、今でも、京都による機会があればちょっと食べていこうかなという気になる。

第一旭はチャーシュー、それから新福菜店は黒いスープが印象的だ。どちらも混んでいることが多いけれど、行くタイミングで混み具合は違う。特段こだわりはないから、混んでいない方に入るようにしている。限られた経験からいうと、新福菜店の方が回転が速いように思う。

京都駅は、今では伊勢丹の中に拉麺小路ができた。有名なラーメン屋も入っていて、これはこれでおいしい。もっといえば、この10年で総じてラーメン屋の質は上がっている。こだわって作られているラーメンということであれば、東京であればもっといろいろある。第一旭も新福菜店も、おいしいが昔ながらという感がある。

僕自身にとっては、もはやそれは懐かしさと重なっているから、味の問題ではない。2つの店が並んでいて、どちらに入るか迷い、空いていると思った方に入る。学生の頃も思い出せるし、その後のことも思い出せる。京都らしい、という感もある。

あと、この2つの店は接客が今も昔も素晴らしいと思う。特に新福菜店は印象的だった。学生の頃の思い出でいえば、客のことをいつも「大将!」と呼んでくれていた。二十歳になるかならないかの僕に対して、「大将!今日は何にしましょ。」と聞いてもらえる。ちょっと恥ずかしくもあるがうれしくもあった。もちろん、それでラーメンを頼むわけだが(笑

最近は、そうは呼んでもらえなくなった気がする。けれども、先日行ったときには「兄さん!今日は何にしましょ。」と言ってもらえた。30すぎてもそういってもらえるのは、やっぱりうれしい。この接客はやめないで続けて欲しいと思っている。そうである限り、僕はここにまた来ることになるだろう。

2012年11月14日水曜日

性愛空間の文化史

性愛空間の文化史
金益見『性愛空間の文化史』ミネルヴァ書房、2012

いわゆる「ラブホテル」についての歴史研究である。連れ込み茶屋や宿、それからモーテルの時代を経て、1973年の「目黒エンペラー」なるラブホテルの登場を前後して、この用語が一般に定着していったとある。

ある用語が一般に定着するとともに、その意味が時間の中で変容していくことを捉えることは、文化史として重要なことであろう。僕たちが日常的に用いている何気ない単語の存在が、時には、僕たちの社会や文化の深層をえぐる手がかりになることもある。

ラブホテルという用語への注目はそれ故に興味深いが、今回の本の中でどこまで僕たちに驚きを与えてくれてるいるかは定かではない。本書は、正直に言うと資料集に近い印象を受ける。後は読み手に任せたということなのかもしれないが、そういう本は可能だろうか。もちろん、歴史研究として史料を残すことは一つの価値があるが、その解釈やつなぎに期待しては駄目だろうか。

直感的に言えば、ラブホテルは、ハレとケの間であったり、表社会と裏社会の間に位置するように思われる。それほどラブホテルという用語に注目するということ自体が、すでに魅力的なアイデアだったはずだ。その期待の高さゆえにということもあろう、この本では社会の深層に踏み込めたという印象を持つことができない。

後いいわすれたが、最後についているラブホテルの年表は詳細で興味深い。まさに歴史的資料としての価値があると思う。次の研究は、ここから始めることができる。

ラブホテル進化論 (文春新書) 美人論 (朝日文芸文庫) つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

2012年11月13日火曜日

「関係の空気」「場の空気」

「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)
冷泉彰彦『「関係の空気」 「場の空気」 (講談社現代新書)』、2006。 

 「空気」については、KY(=空気を読めない人=場の雰囲気・状況を察することが出来ない人)という語が流行した。多分、私たち日本人は、意識するとしないとに関わらず、「空気」を日常生活でいつも気にしている。ただ、「空気」そのものが何なのかは、その特性からあまり問題とはされない。

 この本は、日本における「空気」の先行研究を踏まえ、そこに日本語の問題という観点を加えて現代の日本社会を考察している。更に、最終章では「空気」への対処法として、日本語の使い方という点から、いくつもの具体的提案をしていて面白い。

 先行研究とは、山本七平「空気の研究」(1977文藝春秋=1983文春文庫)である。山本の研究が、第三章「場の空気~「『空気の研究』から三十年」において、かなり丁寧に紹介されている。そこでは「空気の研究」が、「日本社会を理解する上で、今でも必読図書のナンバーワン」と高く評価されている。そして、「山本亡き後も猛威を振るう空気」として、日本社会における「空気」の跋扈が、バブルの膨張と崩壊、郵政民営化、ライブドアなどを例として、説明されている。

 著者は、アメリカで大学生に日本語を教えているようだ。そこで、日本語の特性として、短縮表現が会話の中で効果を上げることに気付く。大幅な省略があるのに、互いに会話が成立するのは、そこに「空気」があるから、ということに着眼する。著者は、一対一の関係における会話における「空気」を「関係の空気」と呼び、三人以上の場における「空気」を「場の空気」と呼んで、区別することを提案している。そして、この二種類の「空気」について、「非常におおざっぱではあるが、『場の空気』には問題があり、『関係の空気』はむしろ必要なもの、という仮説をもちながら論を進めてみたい」と言う。この場合、山本が問題とした「空気」は、「場の空気」に当たるだろう

 「空気」を二つに分類したことで、「関係の空気」の効用が浮かび上がってくる。更に、それが今日希薄化している、という指摘が続く。私たちは、「関係の空気」の中で、それを前提に会話していたのに、それが希薄化すると同じ事を言っても相手に通じない、ということが起こる。自殺者の急増、学校でのいじめなど、空気不足による会話の不全の例が語られると、なるほどなと思う。

 一方で、「場の空気」の方は、相変わらず跋扈している。「関係の空気」には会話する二人に対等性がみられるが、「場の空気」には、権力が特徴だ。その際、公的空間に私的な空気が持ちこまれる時に権力が生まれる、という指摘は斬新だと思う。元首相の演説やテレビタレントの語り口などを取り上げての説明は、説得力があると感じた。

 こうした指摘を基にして、最終章では「日本語をどう使うか」と題して、五つの提案をしている。いずれも重要だが、中でも、教育現場では「です」「ます」のコミュニケーションを教えよ、という主張には全面的に賛成だ。

 「空気」は、まずは論理の対象でないからこそ「空気」と呼ばれる。だからこそ、この本のように、「空気」を対象化して論理で説明すると同時に、具体的な対応を考え、更に意識的に実践するということがとても重要だと思う。そうした努力を通じて、「空気」に振り回されず、「空気」とうまく付き合うことが、少しずつ可能になるのだろう。

「空気」の研究 (山本七平ライブラリー) 「上から目線」の時代 (講談社現代新書) 二人称の死―西田・大拙・西谷の思想をめぐって

道徳の系譜

「私に与えてくれたまえ、私がお願いしたいのは--何なのか?何なのか?それを言いたまえ!--もう一つの仮面を!第二の仮面を!」

 Nietzsche, F.(1887), ZUR GENEALOGIE DER MORAL,邦訳295頁。(木場深定訳『道徳の系譜』岩波文庫、1964)

どこかで記録していたのだが、何処に残っているのかわからなくなっていた言葉を見つけた。『この人を見よ』の一部だとばかり思い込んでいたが、『道徳の系譜』だったか。どうりでみつからなかったはずだ。これで合っているかどうか改めて確認し直そうと思うが、ひとまずなくしてしまう前にこちらに。

しかし今この文だけみるとよくわからなくなるのだが、「私」とは誰だったのだろうか。それこそが、仮面ではないだろうか。Es denktだったはずだから。もし、私がいたとすれば、それは「私」の方ではなくて、「お願いしたい」の方だったことになるだろう。

 道徳の系譜 (岩波文庫) 善悪の彼岸 (岩波文庫) この人を見よ (岩波文庫)

2012年11月5日月曜日

ワンクリック―ジェフ・ベゾス率いるAmazonの隆盛

ワンクリック―ジェフ・ベゾス率いるAmazonの隆盛
リチャード・ブランド『ワンクリック―ジェフ・ベゾス率いるAmazonの隆盛』日経BP社、2011→2012

 今も成長を続けるアマゾンについて、特に社長であるジェフ・ベゾフに焦点を当てて考察した一冊である。2011年発行、さらにはタイトルも印象的で読んでみたのだが、大半は2000年頃までの話に終始している。この手の話はすでに日本人の手によるものまでずいぶんと出ていたのではないだろうか。細かい議論では発見もあるのだが、全体的には古さを感じる。 

最後の方でようやくKindleが登場し、最近の話になる。アマゾンvs出版社といったテーマはとても興味を引くのだが、こちらもそれほど新しい情報はなかったように思う。これは著者の問題というよりも、ずいぶんと隠されたトップシークレットなのだろう。今後の展開をみるしかないのかもしれない。

タイトルがせっかくクリックなのだから、この辺りはもう少し結びつけられたのではないだろうか。Kindle話も、しかしすぐに終わり、またベゾフ論になる。こちらもずいぶんといわれてきた話のような気がする。

 アマゾンに興味を持ち、ジェフ・ベゾフについて知りたいと思った人が、はじめて読むというのならばこれでいいかもしれない。しかし、日常レベルでさえ、アマゾンに触れるようになっている我々にとっては、もう一歩踏み込んでもらえなかったのだろうかという気もする。 

個人的に知りたいデータは一つあって、なるほどと思ったのは、アマゾンのマーケットプレイスのくだりだった。やはり収益として大きくなってきているようで、フォレスターリサーチによるデータで、2010年最終四半期で全体の約35%だという。

あと、改めてこの本を読んで思ったのは、アマゾンが利益が出なかった当時、規模をできるだけ大きくしようとしていたということだった。ビジネスとしてどちらが正しいのか、よくわからないが、最初にシェアをとって後続を抑えるというのは一つの方法なのだろう。あるいは、一歩抜きんでれば、後は倍々ゲームで差が広がるだけということなのかもしれない。

 アマゾン・コムの野望 ─ジェフ・ベゾスの経営哲学 アマゾン・ドット・コム アマゾンの秘密──世界最大のネット書店はいかに日本で成功したか