ラベル

2012年10月31日水曜日

夢の原子力

夢の原子力: Atoms for Dream (ちくま新書)
吉見俊哉『夢の原子力: Atoms for Dream (ちくま新書)』、2012

 タイトルの通り、原子力についての書籍である。ただ、3.11を契機にして書かれたものではあるが、これからの原子力の在り方や、原発/反原発を問うているわけではない。むしろ本書が問うているのは、これまでわれわれが接してきた原子力なるものが、いかなるものであり、またいかなる形で日本で受け入れられてきたのか、その歴史的経緯である。

原爆をきっかけにして始まる日本の原子力の経験は、その後冷戦化のアイゼンハワーによる「アトムズ・フォー・ピース」の文脈の中で錯綜し、原爆と原子力(発電)、悪と善という図式で内面化されていくことになる。このさい、原子力は世界的にみて電力と結びつくことになるのだが、この結びつきこそ、その後の原子力の在り方を規定していくことになった。重要なのは原子力ではなく、それが他ならぬ電力として、われわれの社会に埋め込まれていったという点にある。

前半で述べられるように、原子力は何も電力でなければならないわけではない。むしろ、原子力発電は基本的に熱としてタービンを回すだけであるのだから、電力との結びつきは相当に弱い。医療であろうと何であろうと、もっとほかの選択肢もまたありえたであろうし、そうした道がもし選択できていたのならば、もっと別の可能性が見いだせたのかもしれない。

後半では、博覧会を挟みつつ、どちらかというと50年代以降の映画やアニメの分析を通じて、日本がどのように原子力を理解し、捉えていったのかが語られる。その考察はゴジラに始まり、鉄腕アトム、さらにはAKIRAや20世紀少年へと進んでいく。原子力の脅威が唐突にもたらされるというゴジラに代表されるストーリー展開は、その担い手としての主体を不可視なものにしつつ、最終的にはAKIRAのように特異な少年の超能力的な覚醒という内側からの破壊として捉えられるようになる。そこでは、ようするにアメリカの不在が語られるというわけである。同時に、こうした世界観は、20世紀少年が語る大阪万博のオルタナティブとしてある。

状況はよく分かる。それに加えて、僕がふと思ったのは、1997年のファイナルファンタジー7の魔晄炉は、原発を指していたのか、ということだった。漠然とだが、ずっとあれは石油を吸い出す機械で、それゆえに地球が滅びるのだと思っていた。しかし、石油を吸い出したぐらいで地球は滅びないだろう。滅ぼしかねないのは原子力のほうだ。後半ではジュノンで魔晄キャノンとして武器にもなる。あれこそ原子力のもう1つの側面だ。魔晄の結晶ともいえるマテリアは、ウランとも言えそうだ。しかも、魔晄を浴びるとソルジャーどころかモンスターになるのだった。あれはゴジラだったか。

ネットでみても、そんな記述もある。ただ、つきつめていけば、やっぱり魔晄炉が原発かどうかははっきりしない気もしてきた。なにより、魔晄そのものの破壊性はあまり感じられない。石油+原子力といった感じがする。その曖昧さが一つの特徴なのかもしれない。時代的にも20世紀少年が1999年らしいから、その直前の曖昧な状況を提示していたのだろうか。

いずれにせよ、僕たちの意識の中に、原子力は深く埋め込まれていることはわかる。その意識を洗い出す作業をしていくことは、これから原発をどうしていくのかを考える際にも、必要になりそうな気がする。もちろん、それが経済的にどういう意味があるのかといった現在の社会的文脈(というか、それも政治的というべきだろうか)も重要だろうけれど。

万博と戦後日本 (講談社学術文庫) 親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書) 岩波映画の1億フレーム (記録映画アーカイブ)