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2012年10月26日金曜日

教育と選抜の社会史

教育と選抜の社会史 (ちくま学芸文庫)
 天野郁夫『教育と選抜の社会史 (ちくま学芸文庫)』1982=2006

 学校は、個人にとっては知識・技能を習得し、自分の可能性を広げてくれる存在である。ところが、それは一方で人を試験によってランク付け、選別する存在でもある。前者にだけ目を向ければ、個人に希望をもたらす素晴らしいものだが、後者に注目すると、冷たくて意地が悪いものとなる。

 こうした学校の二面性は、実は近代の産業社会の要請に応えたものだ、という理解がこの本の核心にある。産業社会においては、個々人の資質や能力は生まれや身分と関係なく、広く人々の間に平等に分布している、と考えられる。

 そこで、社会的な地位や役割が、資質や能力に応じて適切に配分されるためには、まずは人々により高い地位や役割の獲得をめざして競争に参加してもらわなくてはならない。その参加動機として、高い所得やより大きな権力・威信への期待がある。ところが、用意された地位や役割は当然限定されている。

 「より多くの人々を競争に参加させるよう加熱する一方で、その人々を用意された地位や役割に合わせて、しかもそのことに恨みの感情を残さぬよう適切な水準まで減らしていかなければならない。」「産業社会の選抜と配分の機構は、この冷却と過熱の相反する過程の微妙なバランスの上に立っている。」と著者は書いている。まさに、学校の二面性の役割そのものである。

 この本は、教育と選抜の関わりが、産業社会の成立を背景にどのように発展したかを、主に日本を取り上げて歴史社会学的に辿っている。その際、近代化のお手本となるヨーロッパ諸国がまず取り上げられ、その比較から明治以降の日本の教育制度の特色が析出される。そもそも学校は、本来的に選抜のために作られたわけではない。例えば、江戸時代の寺子屋や藩校は、競争とは無縁であった。国家による公教育の思想は、近代ヨーロッパでしか生まれなかった。国家が学校を設置し、全ての人に教育機会を与え、又多様な学校をシステムに体系化する。そしてそれこそが、まさに冷却と過熱の仕組みを作り出す、重要な社会的装置となったのである。

 この本が書かれて、もう30年が経っている。30年も経つと、大抵の本は読む人もなくなり忘れられる。しかし、この本は現在でも十分に生きているようだ。文庫版の巻末では、、著者の二人の弟子(広田照幸、苅谷剛彦)がその意義を解説している。社会学プロパーにとって、この本は今や古典であるらしい。そして、実は一般人読者にとっても、大変面白い本だと私は思う。最初の出版は、教育学全集の一部であり、一般人には目に触れにくかった。こうして文庫版が現れたのは、有り難い事である。

 この本を読むと、明治以降のここ数世代の日本人が、どれだけ教育制度の中で加熱や冷却されたかをつい想像してしまう。そのお陰で、今や高等教育の進学率も、行き着くところまで行ったようにみえる。現在、教育と選抜の関係は、どうなっているのか。又、今後どう変わっていくのか。

 ヨーロッパのイエズス会のコレージュや、日本の咸宜園・適塾には、社会的選抜とは無関係に厳しい競争があった。リセやギムナジウムにあったバカロレアやアビツーアを、日本の中等教育は取り入れなかった。日本の大学が、既に大正時代という早い時期から、企業の職員を供給する役割を果たした、などなど。この本には面白い話は沢山あって、それらが今後を展望する手がかりになるような気がする。

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