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2012年10月10日水曜日

働く女性とマタニティ・ハラスメント

働く女性とマタニティ・ハラスメント―「労働する身体」と「産む身体」を生きる
杉浦浩美『働く女性とマタニティ・ハラスメント―「労働する身体」と「産む身体」を生きる』大月書店、2009

興味深い内容だった。多くの場合、女性の労働環境は良いとは言えない。本書が指摘するように、その改善を目指してきた近年の「平等化戦略」は、「産む身体」すら個人の選択という問題に解消しようとしてきたが、さすがにそこでは身体が悲鳴を上げることになる。にもかかわらず、さらにそうした悲鳴は、まだがんばれるかもしれない、自分で決めたことなのだから、という意見に陰に陽に押さえ込まれてしまうことで、時に悲劇も生まれる。

同時に、「産む身体」を全面に押し出す過去の方法は、権利の獲得にはつながる一方で、「労働する身体」を阻害し、結局女性の労働環境を改善し得ない。労働環境の改善の為の方策は、どうしても微細に展開される必要があるし、またそのありようこそが分析される必要がある。おそらく、身体もまた構築されているというバトラーの主張は、だからそれは幻想で、変更可能なのだというよりは、その変更可能性自体、それがどういうものであるのか、その身をもって遂行的に知るしかないということなのだろうと思う。

根本的な解決の道筋があるとすれば、労働と産む身体の対立図式を弱めた社会や組織を作り出していくということぐらいだろうか。残念なことに(というべきだろうか)、論理的に問いうるほど、労働と産む身体の対立は現在緊張状態にあり、だからこそ、研究も現実もおそらく解けない問題の中におかれてしまっている。だが、可能性としては、労働と産む身体は、そこまで究極的に対立し、緊張せずともいいのではないか。

もっと具体的には、シンプルな話で、例えば男性が産む身体の役割を担う(本当に産むことはなかなか難しいだろうが)ことであったり、上司が同じ経験を持つ女性であったりすることが重要なのだろう。本書が最後に指摘するように、問われるべきは「産む身体」というよりは、「労働する身体」の方にある。

どうして「そこまで」働かねばならないのだろう。多分次の問いは、この「そこまで」が具体的にどのように理解され、またジェンダーなり何なりに帰属させられていくのかという過程を記述していくことによって、働くということを解体していく作業なのだろうと思う。