ラベル

2012年10月11日木曜日

われらゲームの世代・理論編8

ちょっとまとめ

さて、とりあえずここまでの展開を確認しよう。西村は、否定派と肯定派がもつ同じ認識として、テレビゲームは、虚構の世界を主人公として生きるものと考えられていることを明らかにした。その上で、本当に僕たちは虚構の世界を主人公として生きることがあるのかどうかという点と、本当に虚構の世界は現実の世界の代理になるのかという点について考察した。

まず第一の問題である虚構の世界を主人公として生きるかどうかという問いに対しては、純粋に没入してしまうということはありえず、一方でゲームを外側から支配するという感覚があるということ、それゆえに実際には虚構と現実が連動するシンクロがみられるとした。この点において、否定派と肯定派の議論は、問題を取り違えていることが示された。

次に、第二の問題である虚構は現実の代理になるかどうかという問いに対しては、少々の問題がみられた。西村自身は代理にはならないとしたが、僕の感覚からすると、この問いに明確に答えることはできず、むしろ問題なのは、シンクロにおいて虚構と現実が連動するということの意味である。

シンクロというアイデアは面白い。ゲームの快楽ともいえそうだ。そこで、シンクロが意味するものをもう少しゲームに引きつけて考えてみたい。虚構と現実が連動するシンクロとは、我々にとっていったい何を意味しているのか。どうだろう、ちょっとここは方向性を変え、ゲームそのものについて考え直すことから始めて見よう。

さしあたりみていこうと思っているのは、もっと古い議論。テーマはゼビウスである。


ファミコンミニ ゼビウス スーパーゼビウス