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2012年10月10日水曜日

われらゲームの世代・理論編7

シンクロの再解釈

とすれば、全体的な結論も少し変わってくるように思う。確かにシンクロの議論は、基本的に、虚構が現実を代理するとは考えない。シンクロするためには、連動する複数の世界の区分が必要となるからである。

しかしながら一方で、シンクロしている状況においては、虚構と現実の区分は限りなく曖昧になるともいえる。というのも、本来ならば関係のない世界である虚構と現実がシンクロする状態とは、通常の虚構と現実の関係に比べるとだいぶ特殊だといえるからである。そこでは、代理してしまっているというか、まさにくっついてしまっているという状態が想定される必要がある。

多分、ここで本当に問題となるのは、虚構は現実の代理となるかという問いではなくて、虚構と現実が関係を持つということの意味である。このあたり、虚構と現実の関係については、同時期に大澤(1996)が興味深い指摘をしている。そちらとつないだ方が、話が発展するように思う。

大澤によれば、現実は、常に虚構を必要とする 。というのも、現実が存在するためには、現実ではないもの(=虚構)が存在しなくてはならないからである。この区分があるからこそ、現実は現実としての価値をもつことができる。虚構なき現実は、結局虚構でしかないか、もっと端的にいえば、それは虚構ですらなく、完全な無である。

それゆえ、現実と虚構は対立するものではなく、むしろ補完関係を有しているといえる 。 視点は異なるものの、同様の指摘を西村を引き継いだ松田(2001)の議論にみることができる。松田は、西村の議論をふまえつつ、身体に焦点を当ててテレビゲームを考察する。そして、シンクロを「個人・主体」の身体を解体した後の新しい身体の萌芽だとし、そこに、脱物語化・脱主観化の可能性を見出している 。

つまり、松田は、虚構と現実から描き出されたシンクロいう状況を、僕たちの通常の認識枠組みといえる主観・客観という二項対立図式から脱する契機として捉えている。虚構・現実という二項対立図式もまた我々の通常の認識枠組みであるが、テレビゲームにおいてシンクロするとき、僕たちはこの対立を脱している可能性があるというわけだ。

増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)  動物的/人間的 1.社会の起原 (現代社会学ライブラリー1) 夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)