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2012年10月9日火曜日

われらゲームの世代・理論編6

若干の問題

とはいえ、もう一方の虚構が現実を代理できるのかという問いは残る。正直、この具体的な意味は取りにくい。虚構が現実にとって役に立つのか、ということだろうか。であれば、そもそも役に立たない、とは端的にいえないだろう。それゆえに、ここで議論されているのはもう少し違う意味だと思うが、西村は、それが「ゲーム」であると理解されている限り、つまりメタ・コミュニケーションが機能している限り、虚構が現実を代理するような事態、つまり侵犯することはないとする。

確かに、メタ・コミュニケーションが機能する限り、虚構と現実の区分は成立する。しかしここで問題なのは、そのメタ・コミュニケーションが機能しなくなる可能性である。西村の議論は、単純にメタ・コミュニケーションの存在を仮定するだけにとどまり、メタ・コミュニケーションが機能しなくなる状況を想定しているわけではない。

実際の問題として、メタ・コミュニケーションが機能しなくなる状況は存在するだろう。西村自身、香山(1996)が指摘した癒し効果の根拠を、テレビゲームはあくまで機械相手の遊びなのであって、そこではメタ・コミュニケーションが不要であるからだと主張している 。とすれば、虚構が現実を代理できるのかという問題に対し、代理できないと答える西村の議論には限界がある。

むしろ、虚構が現実を代理できるのかという問題に対しては、先のシンクロの議論を前提にして考察したほうがよい。考えてみれば、第一の問題であったテレビゲームの世界を生きるということが意味するのは、虚構と現実の明確な区分がなくなり、虚構の世界が現実になるということである。その場合、虚構の世界が現実を代理していることにもなるだろう。

西村は、おそらく、テレビゲームを旧来の遊び(特にごっこ遊び)と結びつけるために両者を区分し、メタ・コミュニケーションを議論したと思われるが、ここではその区分は必要はない気がする。なんというか、僕たちが理解する日常世界の一コマとしてのゲームは、もはや、侵犯があるかどうかを乗り越えている。


近代言語イデオロギー論―記号の地政とメタ・コミュニケーションの社会史 なぜヒトは旅をするのか―人類だけにそなわった冒険心 (DOJIN選書) コミュニケーションの社会学 (有斐閣アルマ)