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2012年10月4日木曜日

われらゲームの世代・理論編4

テレビゲームを捉える二元論

このように、テレビゲームを捉える視点としては、基本的にテレビゲームは「悪」であるのかという点をめぐって、否定派と肯定派の間で議論されてきた。この対立は、一見すると、どこまでも終わりのない平行線をたどるようにもみえる。

しかし、肯定と否定が用意されれば、やがて選択されるのは第三の道である。西村(1999)は、この両者が同じ認識を共有していると指摘する。西村が指摘する同じ認識とは、テレビゲームは、現実のシミュレーションであり、虚構としてのテレビゲームの世界を、その物語の主人公として生きるものだという認識である 。

テレビゲーム否定派は、虚構としてのテレビゲームを生きることを否定し、現実を保護しようとしている。この視点は、虚構(テレビゲーム)と現実の区別がつかない子どもたちという認識として、しばしば我々も耳にする。一方で、テレビゲーム肯定派も同じ認識を共有する。テレビゲーム肯定派は、虚構としてのテレビゲームを生きることを肯定し、現実において虚構としてのテレビゲームが果たす役割を強調する。例えばその一つが、先の香山による虚構を生きることを通じた癒し効果や学習効果である。

確かに、ゲームの世界を虚構のものと見なす限り、いつだってその嘘っぽさが問題となるだろう。それは事実ではないといわれることもあるし、あるいは、それも事実に役立つといわれることもある。だが、すでに僕たちも指摘してきたように、ゲームの世界は虚構としてあるわけではなく、ゲーム自体が僕たちの生活の一部だったことを思い出す必要がありそうだ。

ちなみに、西村は、この同じ認識の存在を指摘した上で、両者の議論においては2つの問題が混乱して残されていると主張する。2つの問題とは、一つは、我々は本当に主人公と同化し、テレビゲームの世界を生きることができるのかという問題であり、もう一つは、我々は本当に虚構で現実を代理できるのかという問題である 。この問題意識は、僕たちのそれとは少し異なるが、彼の議論をもう少しみていこう。


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