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2012年10月18日木曜日

われらゲームの世代・理論編13

物語の支配

物語の世界に没入しつつ、同時に、その物語を支配しようとすることは、つまりは虚構と現実のシンクロにおいて生じる。テレビゲーム否定派、肯定派が前提としてきたのは、テレビゲームの持つ虚構としての物語性の存在であり、その価値であった。しかしながら、むしろ忘れてはならないのは、物語の支配の可能性である。

このことは、大塚の議論をのりこえようとする東(2001)の議論を踏まえることでより明確となる。東は、端的に、今日における大きな物語の権威の失墜を主張し、それに代わるデータベースに基づく断片的世界の乱立と、そこで生じる新しいテレビゲーム消費を考えている。東によれば、すでに大きな物語は崩壊している。元来、大きな物語とは、近代社会における国家、あるいは、それ以前の共同体社会を想定した概念であったという。

こうした議論をより明確に展開したのは、大澤(1996)である。大澤は連合赤軍とオウム真理教を比較しつつ、連合赤軍を現実・理想の区分で、一方のオウム真理教を現実・虚構の区分で捉える。そして、今日では大きな物語としての理想は、その明示的な形を失い、限りなく虚構に近くなったとする。

しかし一方で、虚構は依然として大きな物語の形骸を有している。なぜならば、我々は、個々の物語への参加を通じてこの大きな物語にアクセスできるが、結局、虚構は現実ではない以上、その大きな物語に本当に到達することはないからである。到達したいのに到達できない虚構は、ここで超越性を帯びる。

この現代の認識は、先にみた大塚(2001)の見解と一致する。 東の議論は、大澤の議論をさらに徹底させ、そもそも大きな物語なるものは、もはや崩壊していると主張している。もはや、虚構としての世界が逆説的な超越性を持っているとは誰も考えていない。あるいは逆に、逆説的な超越性を持つことを、誰もが知っている。

つまり、虚構はもはや虚構ではなく、「過視的」なのである。東によれば、大きな物語が崩壊した中現れた、秩序付けられたパーツ群としてのデータベースと、それらのパーツを元にして適宜構成される小さな物語によって、本来ならば背後に隠れているはずの虚構は、あまりにも露骨に姿をあらわしてしまう。

このような状況においては、ますます、テレビゲームの世界が持つ物語性が、それだけで僕たちは魅了することは困難となる。極論すれば、大きな物語を必要としない世代が現れつつある 。彼らがゲームに惹かれるとすれば、それは大きな物語によってではない。逆に、データベースを組み合わせて小さな物語を作ること、創造主になることに惹かれるのである。


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