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2012年10月17日水曜日

われらゲームの世代・理論編12

ゲームの物語性

考えてみると、テレビゲームの物語性に注目する視点は少なくない。先にみたテレビゲーム否定派、肯定派にしても、テレビゲームが一つの物語を形成していると考えていた。物語とは、一種のフィクションであり、虚構である。

また、吉見(1996)は、80年代後半のファミコン現象を捉えて、物語の消費そのものを目的とするゲーム群が主役となっていると主張している。その上で、吉見は、こうした消費行為を広く物語消費論として捉えた大塚(2001)をふまえ、テレビゲームは大きな物語を形成していると指摘する 。

大きな物語とは、個々の物語を全体として包括する臨界値として構成される記号世界である 。この場合、個々のゲームプレイヤーは、それぞればらばらの世界を成立させつつ、しかし、全体としてはテレビゲームの持つ大きな物語に参加することになる。

そういえば、大塚(2001)では、ビックリマンチョコの例が大きな物語として挙げられている。この場合、ビックリマンチョコは全体として大きな物語を持ち、その物語は、個々のシールを収集することによって子供たちに獲得されていくことになる。ただし、あくまで、大きな物語は背後に隠された世界であり、直接に触れることはできない。だからこそ、子どもたちは、明示化された個々のシールを集めることで、その背後の世界にアクセスしようとする。

とはいえ、繰り返すが、僕たちは決してその物語の中を生きることに終始し、そこのみに快楽を感じるわけではない。僕たちは、その物語自体を支配し、生成することにも快楽を感じる。

この視点は、大塚(2001)がいうゲームマスターの重要性と一致するだろう。ゲームマスターは、物語の全体性を確認し、進行させる。大塚は物語マーケティングの例を引きながら、物語マーケティングに必要なのは、物語と世界の管理者としてのゲームマスターであると指摘する 。

基本的に、大塚の議論においては、このゲームマスターの役割は企業側がとることを前提としているが、当然、プレイヤーもまたゲームマスターの視点に立つ。受け手としてのプレイヤーは、断片としての物語を自由に解釈する能力を有し、それゆえに、自由に物語を創造することができるからである。

この可能性は、大塚自身も認めている 。結局、物語性が意味を持つのは、僕たちがその物語を生きるに値するかどうかという意味においてではなく、僕たちその物語に関与することを望むかどうかという意味においてなのである。

ビックリマン・シールコレクション 悪魔vs天使編 80\'sチルドレンセレクション(復刻版シール付き) (別冊宝島) ビックリマン・シールコレクション 悪魔vs天使編 80\'sチルドレンセレクション(復刻版シール付き) (別冊宝島)