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2012年10月1日月曜日

われらゲームの世代・理論編1

テレビゲームを捉える論理
われらゲームの世代第二弾に向けて

一ヶ月ほどゆっくり休んでみて、続いて何をしようかと考えていた。いろいろ思い出すことも悪くないが、少し方向性を変えて、僕ではなく世間がテレビゲームをめぐって何を考えてきたのか、こちらを見てみるというアイデアはどうだろう。

この試みは、実際にやろうと思うと結構大変である。自分の記憶をたどるのではなく、外に資料を探しにいかないといけないからである。だが、ラッキーなことに、こちらには既に過去に調べた資料がある。これをもとに、少し文章を書き直しながら話を進めたらどうだろう。以降、さしあたり理論編ということにするが、これらは過去の遺物を再構成している。

いろいろみてると、ファミコンの発売以来、テレビゲームで遊ぶという行為をめぐって、さまざまな議論がなされてきた。ざっくりみて、大きく2つに分けておいたらどうかと思う。

一つは、テレビゲーム産業に関する研究である。産業構造分析(新宅・田中・柳川編2002)や、任天堂やソニーといった企業の研究が行われてきた(Jeff1993、藤川1999)。

それからもう一つの研究は、テレビゲームで遊ぶ人々や文化に焦点を当てた研究である。こちらは、テレビゲームを受容する消費者に焦点をあてながら、メディア論(水越1999、吉見1996)や消費文化論(Fiske1991、東2001)からのアプローチが進められてきた。

もちろん、これらの分類ははっきりしているようなものではなく、例えばAoyama&Izushi(2003)のような論文になると、前者のテレビゲーム産業に焦点を当てつつも、日本においてテレビゲーム産業が台頭した理由として、後者の日本に先行して存在していた漫画やアニメーションを受容する文化が指摘されていた。

ようするに、現実としては、両者は対応関係を持って成立していると考えるのが自然である。今回の興味というところでも、第一にはテレビゲームで遊んできたということに興味があったわけだが、そこには当然ビジネスの問題も入り込んでいた。 ひとまず、以下でみていこうと思っていたのは、テレビゲームで遊ぶという消費行為をどう理解するのかという後者の問いである。時々前者のビジネスの話も出てくるだろうが、適宜進めていこう。

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