ラベル

2012年10月31日水曜日

夢の原子力

夢の原子力: Atoms for Dream (ちくま新書)
吉見俊哉『夢の原子力: Atoms for Dream (ちくま新書)』、2012

 タイトルの通り、原子力についての書籍である。ただ、3.11を契機にして書かれたものではあるが、これからの原子力の在り方や、原発/反原発を問うているわけではない。むしろ本書が問うているのは、これまでわれわれが接してきた原子力なるものが、いかなるものであり、またいかなる形で日本で受け入れられてきたのか、その歴史的経緯である。

原爆をきっかけにして始まる日本の原子力の経験は、その後冷戦化のアイゼンハワーによる「アトムズ・フォー・ピース」の文脈の中で錯綜し、原爆と原子力(発電)、悪と善という図式で内面化されていくことになる。このさい、原子力は世界的にみて電力と結びつくことになるのだが、この結びつきこそ、その後の原子力の在り方を規定していくことになった。重要なのは原子力ではなく、それが他ならぬ電力として、われわれの社会に埋め込まれていったという点にある。

前半で述べられるように、原子力は何も電力でなければならないわけではない。むしろ、原子力発電は基本的に熱としてタービンを回すだけであるのだから、電力との結びつきは相当に弱い。医療であろうと何であろうと、もっとほかの選択肢もまたありえたであろうし、そうした道がもし選択できていたのならば、もっと別の可能性が見いだせたのかもしれない。

後半では、博覧会を挟みつつ、どちらかというと50年代以降の映画やアニメの分析を通じて、日本がどのように原子力を理解し、捉えていったのかが語られる。その考察はゴジラに始まり、鉄腕アトム、さらにはAKIRAや20世紀少年へと進んでいく。原子力の脅威が唐突にもたらされるというゴジラに代表されるストーリー展開は、その担い手としての主体を不可視なものにしつつ、最終的にはAKIRAのように特異な少年の超能力的な覚醒という内側からの破壊として捉えられるようになる。そこでは、ようするにアメリカの不在が語られるというわけである。同時に、こうした世界観は、20世紀少年が語る大阪万博のオルタナティブとしてある。

状況はよく分かる。それに加えて、僕がふと思ったのは、1997年のファイナルファンタジー7の魔晄炉は、原発を指していたのか、ということだった。漠然とだが、ずっとあれは石油を吸い出す機械で、それゆえに地球が滅びるのだと思っていた。しかし、石油を吸い出したぐらいで地球は滅びないだろう。滅ぼしかねないのは原子力のほうだ。後半ではジュノンで魔晄キャノンとして武器にもなる。あれこそ原子力のもう1つの側面だ。魔晄の結晶ともいえるマテリアは、ウランとも言えそうだ。しかも、魔晄を浴びるとソルジャーどころかモンスターになるのだった。あれはゴジラだったか。

ネットでみても、そんな記述もある。ただ、つきつめていけば、やっぱり魔晄炉が原発かどうかははっきりしない気もしてきた。なにより、魔晄そのものの破壊性はあまり感じられない。石油+原子力といった感じがする。その曖昧さが一つの特徴なのかもしれない。時代的にも20世紀少年が1999年らしいから、その直前の曖昧な状況を提示していたのだろうか。

いずれにせよ、僕たちの意識の中に、原子力は深く埋め込まれていることはわかる。その意識を洗い出す作業をしていくことは、これから原発をどうしていくのかを考える際にも、必要になりそうな気がする。もちろん、それが経済的にどういう意味があるのかといった現在の社会的文脈(というか、それも政治的というべきだろうか)も重要だろうけれど。

万博と戦後日本 (講談社学術文庫) 親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書) 岩波映画の1億フレーム (記録映画アーカイブ)

2012年10月28日日曜日

レッツノートAX

ここのところ気になっていた機種がヨドバシにおいてあって、あぁ、なるほどと思った。
コンパチブルでタブレットにもなるレッツノート最新作である。


パナソニック レッツノートAX


windows8のノートパソコン戦略はある程度はっきりしているようで、
タッチパネル+キーボードなのだろう。
昔タブレットはキーボードを持つタイプと持たないピュアタブレットの2つがあり、
現状はピュアタブレットが市場を制した。
これを改めて取り戻そうとしているように見える。

mac book airはタッチパネルを搭載していない。
ipadとのカニバリの問題もあるが、
そもそも、キーボードを使う状況ではタッチパネルはいらないし、
マウスの方が疲れも少ないと考えられていた、と聞いた記憶がある。
そのときはなるほどそうかなと思ったが、
その妥当性はこれからwindows8が明らかにしてくれそうだ。

にしても、レッツノートAXである。
触った感じ、反応はとてもいい。バッテリーが外されていて、実際にはもう少し重いのだろうけれど、それでも、1.14kgということだから相当軽い(ノートパソコンとしてみる限り)。
windows8についても、細かいところはこれからだとしても、OSとしてはそんなに問題があるようには見えない。

少し触手が動いたが、致命的な問題があると思う。
コンパチブルでタブレットになる際、キーボードがタブレットの背面になるのである。
この点はおそらくパナソニックも意識していて、
ホームページ上ではよく分らない形になっている。
僕自身、最初の発表をみたときには、
液晶がくるっと回った上で、キーボードに重ね合わされてタブレットになるのだと思っていた。

タブレットの裏型は、当然向こう側の人に見える。
タブレットとして手に持っている時、キーボードが向こうの人には見えてしまうわけだ。
それがどうした、と思う人もいるだろう。機能こそが大事で、見た目のデザインなんて何を言っているのだというわけだ。
多分、パナソニックでもそういう議論になったのだろうと推測される。

否定はしない。技術派らしいと思うし、そういうところが好きだったりする。
けれども、僕はそれは使いにくい。
剛性の問題があったのだろうと推察するが、
タブレットになるときは、くるっと反転してキーボードを隠してほしい。

このタイプのコンパチブルはしばらくいろいろ出てきそうだ。
いいものが出てくれば、いつでも乗り換える。
ただ今のところ、macの完成度が高すぎるように感じる。

追記:2012年10月29日
価格.comでコンパチブルの紹介がされていた。
これをみると、キーボードがむき出しになるタイプは、むしろ主流なのかもしれない。
デザインより機能でしょ、ということなのかもしれないが、
さて、どうなのだろう。


ノートPCとタブレット、1台で2度おいしいコンバーチブルPCに注目


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2012年10月26日金曜日

教育と選抜の社会史

教育と選抜の社会史 (ちくま学芸文庫)
 天野郁夫『教育と選抜の社会史 (ちくま学芸文庫)』1982=2006

 学校は、個人にとっては知識・技能を習得し、自分の可能性を広げてくれる存在である。ところが、それは一方で人を試験によってランク付け、選別する存在でもある。前者にだけ目を向ければ、個人に希望をもたらす素晴らしいものだが、後者に注目すると、冷たくて意地が悪いものとなる。

 こうした学校の二面性は、実は近代の産業社会の要請に応えたものだ、という理解がこの本の核心にある。産業社会においては、個々人の資質や能力は生まれや身分と関係なく、広く人々の間に平等に分布している、と考えられる。

 そこで、社会的な地位や役割が、資質や能力に応じて適切に配分されるためには、まずは人々により高い地位や役割の獲得をめざして競争に参加してもらわなくてはならない。その参加動機として、高い所得やより大きな権力・威信への期待がある。ところが、用意された地位や役割は当然限定されている。

 「より多くの人々を競争に参加させるよう加熱する一方で、その人々を用意された地位や役割に合わせて、しかもそのことに恨みの感情を残さぬよう適切な水準まで減らしていかなければならない。」「産業社会の選抜と配分の機構は、この冷却と過熱の相反する過程の微妙なバランスの上に立っている。」と著者は書いている。まさに、学校の二面性の役割そのものである。

 この本は、教育と選抜の関わりが、産業社会の成立を背景にどのように発展したかを、主に日本を取り上げて歴史社会学的に辿っている。その際、近代化のお手本となるヨーロッパ諸国がまず取り上げられ、その比較から明治以降の日本の教育制度の特色が析出される。そもそも学校は、本来的に選抜のために作られたわけではない。例えば、江戸時代の寺子屋や藩校は、競争とは無縁であった。国家による公教育の思想は、近代ヨーロッパでしか生まれなかった。国家が学校を設置し、全ての人に教育機会を与え、又多様な学校をシステムに体系化する。そしてそれこそが、まさに冷却と過熱の仕組みを作り出す、重要な社会的装置となったのである。

 この本が書かれて、もう30年が経っている。30年も経つと、大抵の本は読む人もなくなり忘れられる。しかし、この本は現在でも十分に生きているようだ。文庫版の巻末では、、著者の二人の弟子(広田照幸、苅谷剛彦)がその意義を解説している。社会学プロパーにとって、この本は今や古典であるらしい。そして、実は一般人読者にとっても、大変面白い本だと私は思う。最初の出版は、教育学全集の一部であり、一般人には目に触れにくかった。こうして文庫版が現れたのは、有り難い事である。

 この本を読むと、明治以降のここ数世代の日本人が、どれだけ教育制度の中で加熱や冷却されたかをつい想像してしまう。そのお陰で、今や高等教育の進学率も、行き着くところまで行ったようにみえる。現在、教育と選抜の関係は、どうなっているのか。又、今後どう変わっていくのか。

 ヨーロッパのイエズス会のコレージュや、日本の咸宜園・適塾には、社会的選抜とは無関係に厳しい競争があった。リセやギムナジウムにあったバカロレアやアビツーアを、日本の中等教育は取り入れなかった。日本の大学が、既に大正時代という早い時期から、企業の職員を供給する役割を果たした、などなど。この本には面白い話は沢山あって、それらが今後を展望する手がかりになるような気がする。

格差・秩序不安と教育 教育言説の歴史社会学 教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)

2012年10月24日水曜日

陽炎

いつの頃だったか、ラジオのヘビーローテーションでこの曲が流れていて、そのときはそんなに印象もなかったのだけど、何度も繰り返していくうちに耳に残る感じになって、最後にTSUTAYAでレンタルした。

「あの町並み 思い出したときに なぜだか浮かんだ 英雄気取った 路地裏の僕が ぼんやり見えたよ」

フジファブリックというバンドはそれまで名前ぐらいしか知らなかったけれど、この曲をきっかけにしてよくCDを借りるようになった。一回聞いてもあんまり印象が残らないのだけど、繰り返して聞いていると耳になじむ、そんな曲が多かったように思う。

「借りたバットと 駄菓子屋にちょっとのおこずかいを持っていこう さんざん悩んで時間が経ったら 雲行きが変わって ぽつりと 降ってくる 肩落として帰った」

「窓からそっと手を出して やんでた雨に気づいて 慌てて家を飛び出して」

そういえば同じようなことがあったなぁと思ったのだった。学校が終わった後、一度家に帰ってみんなでまた集まって遊ぶのだけど、近くに確かに駄菓子屋があって、多分そこでみんなお菓子を買うのだった。そしてあるときは確かに雨が降ってきて、近くの家に避難するのだけど、そのうち雨は止んでまた遊びに出るのだった。

ありそうな日常であり、もう本当かどうかはよく思い出せないけど、確かにそんなこともあった気がする。彼らが僕のその友達だったはずもないし、歌詞が真実とも限らないのだけど、そういう共感は、大事な気がする。

フジファブリックSINGLES 2004-2009 【初回生産限定盤】

2012年10月22日月曜日

ソーシャルエコノミー

ソーシャルエコノミー 和をしかける経済
阿久津聡他『ソーシャルエコノミー 和をしかける経済』翔泳社、2012

 ソーシャルメディアを中心に活性化するユーザー同士のコミュニケーションやコミュニティを前提にして、経験経済に変わるソーシャルエコノミーなるものの成立を問うている一冊である。主張そのものは現実に沿うところが多く、企業と顧客が一緒になって盛り上がる、楽しむ、あるいは考える、という現象を肯定的に捉えようとしている(企業、は場合によってはいらないのかもしれない)。

 もう少し抽象的な内容かと思ったが、極めて実用的で読みやすい本である。ソーシャルエコノミーの成立をもとにして、企業はいかに新製品開発やマーケティングを行なえばいいのか。1.共益のネタで同好コミュニティを作り、2.盛り上がってきたら一つ上の目標を掲げて競争を促進させ、3.新規参加を巻き込みながら更に活性化させていく。2のあたりが大事なところのようだ。

 数年前のグランズウェルや、あるいはパブリックといった本が指摘してきた内容と大体一致するだろう。違うとすれば、それが日本らしい「和」なるもののあり方であると考えられていることと、それゆえにAKB48や初音ミク、さらにはB-1グランプリといった日本の事例で語られている点であろうか。

 というわけで、最初に写真やら何やらがあってミーハーな本だと感じるが、読み始めれば個人的にはほぼ違和感はない。指摘されている内容や方法は実際にその通りであると思う。カゴメの凛々子プロジェクト等は本当にいい話だと感じた。

 しかし最後の方の議論はよくわからない。冒頭の写真にもつながるが、変な英語で書かれたパワーポイント資料のようなものが登場する。和だったのではないだろうかとも思うし、今までの納得感が急になくなる。

 最後には知識創造論との接続が試みられており、これでいいのだろうかと思う。ソーシャルメディアは、さすがに知識創造論と相性が悪いだろう。それが、賢明にも、形式知–形式知だといわれるとき、僕たちはネット上での熱狂をどう理解すれば良いのだろうかと問い直さざるを得なくなる。

グランズウェル ソーシャルテクノロジーによる企業戦略 (Harvard Business School Press)  知識創造企業

2012年10月19日金曜日

われらゲームの世代・理論編14

物語を創るテレビゲーム

そういえば、僕は前からゲームを作りたいと思っていた。これは、支配の欲求だったのだろうか。考えてみれば、その手のゲーム自体がしばしば提供されてきた。一番印象に残っているのは、エンターブレインから「RPGツクール」に代表されるテレビゲームを作るソフトが発売されていたことだ。

「RPGツクール」は、その名前のとおり、ロールプレイングゲームを作るソフトであり、1992年にアスキー(現エンターブレイン)から「RPGツクール98DANTE」がPC-98版として登場して以来、最近では2002年に「RPGツクール5」(プレイステーション2版)、「RPGツクール2003」(パソコン版)や、2003年「RPGツクールアドバンス」(ゲームボーイアドバンス版)など、多くのプラットフォーム用に継続的に発売されている。

「PRGツクール」は、今までの議論をふまえれば、極めて特徴的なテレビゲームである。というのも、このテレビゲームは、テレビゲームを作るテレビゲームだからである。テレビゲームは、本来、プレイヤーにとって与えられるものであった。それに対して、「RPGツクール」は、プレイヤーにテレビゲームを作ることを与える。

「PRGツクール」が提供するのは、テレビゲームの枠組みとキャラクターデザインなどのデータベースであり、プレイヤーはそれを素材として、テレビゲームを作り上げていく。ここには、物語を積極的に創造するプレイヤーが現れることになる。

「PRGツクール」は、これまでの議論に対して、大きく3つの示唆を与えてくれるだろう。まず第一に、テレビゲームを物語を生きるものとして捉えてきた旧来の視点に対し、その認識の不足を補う。その不足とは、テレビゲームの物語は制御・統制され、支配の感覚を与えるものだということである。「RPGツクール」を、物語に没入して生きるテレビゲームとしてのみ捉えることは難しい。

第二に、テレビゲームなり物語を作成する際には、データベースが活用されるということである。東(2001)の指摘のとおり、今日では、我々はデータベースへのアクセスを通して、物語を生成する。また、それが容易にできる。さらにいえば、今日では多くのテレビゲームが、その物語を「過視化」されている。それがいかなる形で企画され、プログラミングされたのかについて、我々は知ってしまっている。

そして第三に、そうして生成された物語は、決して大きな物語へ回収されることがない。というのも、例えば「RPGツクール」で作成されたテレビゲームの個々の物語において、横の関連は一切ない。それらは、もちろん「RPGツクール」で作られたテレビゲームという共通項は存在するものの、物語自体には何の関連もないのである。作られたテレビゲームは、自己満足のうちに消費されるか、極めて狭い経路で流通するだけにとどまったはずだ。


RPGツクールVX Ace RPGツクールVX Ace

2012年10月18日木曜日

われらゲームの世代・理論編13

物語の支配

物語の世界に没入しつつ、同時に、その物語を支配しようとすることは、つまりは虚構と現実のシンクロにおいて生じる。テレビゲーム否定派、肯定派が前提としてきたのは、テレビゲームの持つ虚構としての物語性の存在であり、その価値であった。しかしながら、むしろ忘れてはならないのは、物語の支配の可能性である。

このことは、大塚の議論をのりこえようとする東(2001)の議論を踏まえることでより明確となる。東は、端的に、今日における大きな物語の権威の失墜を主張し、それに代わるデータベースに基づく断片的世界の乱立と、そこで生じる新しいテレビゲーム消費を考えている。東によれば、すでに大きな物語は崩壊している。元来、大きな物語とは、近代社会における国家、あるいは、それ以前の共同体社会を想定した概念であったという。

こうした議論をより明確に展開したのは、大澤(1996)である。大澤は連合赤軍とオウム真理教を比較しつつ、連合赤軍を現実・理想の区分で、一方のオウム真理教を現実・虚構の区分で捉える。そして、今日では大きな物語としての理想は、その明示的な形を失い、限りなく虚構に近くなったとする。

しかし一方で、虚構は依然として大きな物語の形骸を有している。なぜならば、我々は、個々の物語への参加を通じてこの大きな物語にアクセスできるが、結局、虚構は現実ではない以上、その大きな物語に本当に到達することはないからである。到達したいのに到達できない虚構は、ここで超越性を帯びる。

この現代の認識は、先にみた大塚(2001)の見解と一致する。 東の議論は、大澤の議論をさらに徹底させ、そもそも大きな物語なるものは、もはや崩壊していると主張している。もはや、虚構としての世界が逆説的な超越性を持っているとは誰も考えていない。あるいは逆に、逆説的な超越性を持つことを、誰もが知っている。

つまり、虚構はもはや虚構ではなく、「過視的」なのである。東によれば、大きな物語が崩壊した中現れた、秩序付けられたパーツ群としてのデータベースと、それらのパーツを元にして適宜構成される小さな物語によって、本来ならば背後に隠れているはずの虚構は、あまりにも露骨に姿をあらわしてしまう。

このような状況においては、ますます、テレビゲームの世界が持つ物語性が、それだけで僕たちは魅了することは困難となる。極論すれば、大きな物語を必要としない世代が現れつつある 。彼らがゲームに惹かれるとすれば、それは大きな物語によってではない。逆に、データベースを組み合わせて小さな物語を作ること、創造主になることに惹かれるのである。


動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) 定本 物語消費論 (角川文庫) 増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)

2012年10月17日水曜日

われらゲームの世代・理論編12

ゲームの物語性

考えてみると、テレビゲームの物語性に注目する視点は少なくない。先にみたテレビゲーム否定派、肯定派にしても、テレビゲームが一つの物語を形成していると考えていた。物語とは、一種のフィクションであり、虚構である。

また、吉見(1996)は、80年代後半のファミコン現象を捉えて、物語の消費そのものを目的とするゲーム群が主役となっていると主張している。その上で、吉見は、こうした消費行為を広く物語消費論として捉えた大塚(2001)をふまえ、テレビゲームは大きな物語を形成していると指摘する 。

大きな物語とは、個々の物語を全体として包括する臨界値として構成される記号世界である 。この場合、個々のゲームプレイヤーは、それぞればらばらの世界を成立させつつ、しかし、全体としてはテレビゲームの持つ大きな物語に参加することになる。

そういえば、大塚(2001)では、ビックリマンチョコの例が大きな物語として挙げられている。この場合、ビックリマンチョコは全体として大きな物語を持ち、その物語は、個々のシールを収集することによって子供たちに獲得されていくことになる。ただし、あくまで、大きな物語は背後に隠された世界であり、直接に触れることはできない。だからこそ、子どもたちは、明示化された個々のシールを集めることで、その背後の世界にアクセスしようとする。

とはいえ、繰り返すが、僕たちは決してその物語の中を生きることに終始し、そこのみに快楽を感じるわけではない。僕たちは、その物語自体を支配し、生成することにも快楽を感じる。

この視点は、大塚(2001)がいうゲームマスターの重要性と一致するだろう。ゲームマスターは、物語の全体性を確認し、進行させる。大塚は物語マーケティングの例を引きながら、物語マーケティングに必要なのは、物語と世界の管理者としてのゲームマスターであると指摘する 。

基本的に、大塚の議論においては、このゲームマスターの役割は企業側がとることを前提としているが、当然、プレイヤーもまたゲームマスターの視点に立つ。受け手としてのプレイヤーは、断片としての物語を自由に解釈する能力を有し、それゆえに、自由に物語を創造することができるからである。

この可能性は、大塚自身も認めている 。結局、物語性が意味を持つのは、僕たちがその物語を生きるに値するかどうかという意味においてではなく、僕たちその物語に関与することを望むかどうかという意味においてなのである。

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2012年10月16日火曜日

われらゲームの世代・理論編11

ゼビウスの分析3

しかし、実はそれだけではない、というのが中沢の見立てだった。中沢は、この上にさらに、ゼビウスがもつ決定的な側面を指摘する。それはバグである。

バグとは、テレビゲームのプログラミング上のミスや、ハードウェアの物理的性能の限界などによって生じる通常想定外の怪現象を指す。つまり、ここまで指摘したゼビウスの物語性は、意図的にプレイヤーに与えられたものであったのに対し、バグの存在は、意識するしないに関わらずプレイヤーが発見し、体験することになる。

もちろん、こうしたバグのいくつかは、やはりメーカー側が意図的に用意した、あるいはデバッグせずに残したものであろう。それでも、すべてのバグが意図的に用意されたものではない。プログラムの複雑性が増せば増すほど、バグを事前に取り除くことが難しくなることは明らかであり、場合によっては、バグはプログラムにとって致命的となる 。

しかし、ゼビウスにとって、こうしたバグの存在はマイナスの要素ではない。むしろ逆に、このバクの存在が、プレイヤーに意図せざる形で能動性を与え、結果として、ゼビウスに魅力を与えているのである。プレイヤーに対し与えられる物語性と、プレイヤーが発見するバグの存在が、先の西村(1998)の言葉でいえば、テレビゲームと我々がシンクロすることをより促進することになるだろう。

考えてみれば、バグはやがて裏技やウルテクとして表に出され、ファミ通やファミマガにとって貴重な材料としても利用されるようになった。バグはゲームの魅力をまさに作り出し、その魅力はゲームの産業にも影響を与えていたことがわかる。ゲームそのものの仕組みもまた、ゲームの外側に広がっている。


純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫) イカの哲学 (集英社新書 0430) 神の発明 カイエ・ソバージュ〈4〉 (講談社選書メチエ)

2012年10月15日月曜日

われらゲームの世代・理論編10

ゼビウスの分析2

とはいえ、「引用」による物語性の獲得もさることながら、より強く物語を喚起する源泉は、中沢によればゼビウス自身の完結性である。ゼビウスの世界においては、独自のゼビウス語なるものまで存在し、個別のエリア・マップを一本の軸によってつないでいる。プレイヤーが感じる物語性は、なによりもまず、このゼビウスの世界の完結性であるという。

中沢は、このプレイヤーがゼビウスの背後に感知する物語性を、切断不可能性、また、破壊不可能性として捉えている 。ゼビウスが一つの物語性を持つことで、先の「引用」の効果が相互作用的に引き出されることになる。

さて、ゼビウスに強い物語性を付与するもう一つの要素は、コンピュータによって操作される敵プレイヤーの絶妙な運動性である。敵プレイヤーの生きているかのような行動パターンが、先に用意された物語の中にかぶせられ、組み込まれていくことにより、ゼビウスはさらにすぐれた物語を手に入れることになる。

中沢によれば、ここに、神話的想像力の動きとカタストロフ的な分裂運動の結合がみてとれるという。つまり、一本の軸を与えられて連続的に進行していくかのようにみえる物語の展開と、そうした展開を無視するかのに振舞う敵プレイヤーの予測困難な展開の結合が、全体としてゼビウスに強い物語性を付与する。

こうして、ゼビウスは「引用」(および引用を更に支える自身の完結性)と、それを壊すようにも見える敵プレイヤーの運動性によって、物語性を手にする。プレイヤーは、この物語性に惹かれ、ゼビウスを体験することになる。ゼビウスが完結した物語性を有し、一方で、その時々で予測困難な分裂運動が入り込むことで、さらに物語が活性化するという感じだろうか。

こうした構造は、例えば山口(1983)が明らかにしたような、文化の弁証法的な活性化プロセスそのものであるともいえる。そして、その完結した物語の外部には、さらに、「引用」された別の物語が広がっている。となれば、ゼビウスの物語性は極めて強い。


文化と両義性 (岩波現代文庫) 知の遠近法 (岩波現代文庫) 道化の民俗学 (岩波現代文庫)

2012年10月12日金曜日

われらゲームの世代・理論編9

そもそもテレビゲームとは何であろうか
ゼビウスの分析

中沢(1988)は、ゼビウスについて、レヴィ=ストロースの構造主義的視点を用いて考察している。中沢の議論は、テレビゲームに関する研究においては初期のものであり、二項対立とその侵犯という枠組みがベースにある。中沢の議論は、その当時にあっても、どちらかといえば新しいメディアとしてのファミコンを漠然と危険視する風潮が強かった中で、強いインパクトを持ったとされる 。

周知の通り、というべきだろうが、ゼビウスは、ナムコから1983年に発売されたテレビゲームであり、「インベーダーゲーム」と同じシューティングゲームとして位置付けられる。ただし、中沢によれば、ゼビウスとインベーダーゲームには大きな相違点がある。

それは、物語的な展開の有無である 。もちろん、インベーダーゲームにおいても、少なからず物語的な展開は存在している。しかしながら、インベーダーゲームにおける、地球/外宇宙の侵略者という内/外の神話的二元論では、物語としては単調さを免れることができない。このようなインベーダーゲームにおける物語の単調さを、ゼビウスは大きく克服しているという。

ゼビウスにおける物語性は、大きく2つの方法を通じて、ゲームプレイヤーに喚起される 。一つ目は、「引用」である。例えば、ゼビウスにおいて登場するバキュラと呼ばれる回転する板は、クラーク&キューブリックの「2001年宇宙の旅」において登場する超意識物体モノリスを引用しているとされる 。

また、スクロール展開していくゲームにおいて、その途中でナスカの地上絵が現れる。これはもちろん、ペルーにあるナスカの地上絵を「引用」している。このほかにも、中沢によれば、多くの「引用」が意図的にされている。

こうしたゼビウスそれ自体とは直接の関係のないものが「引用」されることにより、ゼビウスは、奥行きのある物語性を獲得する。バキュラを通して、ゼビウスの世界は「2001年宇宙の旅」の世界ともつながっていることが意識され、また、ナスカの地上を通して、やはりゼビウスの世界が古代文明やSF的世界とも関連していることが意識される。

雪片曲線論 (中公文庫) KADOKAWA世界名作シネマ全集〈第11巻〉人類、未来への挑戦―「2001年宇宙の旅」「インデペンデンス・デイ」 世界遺産 ナスカの地上絵 完全ガイド (GEM STONE 45)

2012年10月11日木曜日

われらゲームの世代・理論編8

ちょっとまとめ

さて、とりあえずここまでの展開を確認しよう。西村は、否定派と肯定派がもつ同じ認識として、テレビゲームは、虚構の世界を主人公として生きるものと考えられていることを明らかにした。その上で、本当に僕たちは虚構の世界を主人公として生きることがあるのかどうかという点と、本当に虚構の世界は現実の世界の代理になるのかという点について考察した。

まず第一の問題である虚構の世界を主人公として生きるかどうかという問いに対しては、純粋に没入してしまうということはありえず、一方でゲームを外側から支配するという感覚があるということ、それゆえに実際には虚構と現実が連動するシンクロがみられるとした。この点において、否定派と肯定派の議論は、問題を取り違えていることが示された。

次に、第二の問題である虚構は現実の代理になるかどうかという問いに対しては、少々の問題がみられた。西村自身は代理にはならないとしたが、僕の感覚からすると、この問いに明確に答えることはできず、むしろ問題なのは、シンクロにおいて虚構と現実が連動するということの意味である。

シンクロというアイデアは面白い。ゲームの快楽ともいえそうだ。そこで、シンクロが意味するものをもう少しゲームに引きつけて考えてみたい。虚構と現実が連動するシンクロとは、我々にとっていったい何を意味しているのか。どうだろう、ちょっとここは方向性を変え、ゲームそのものについて考え直すことから始めて見よう。

さしあたりみていこうと思っているのは、もっと古い議論。テーマはゼビウスである。


ファミコンミニ ゼビウス スーパーゼビウス

八月十五日の神話

八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)
佐藤卓己『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』ちくま新書 (544)、2005

8月15日は、今日の日本人にとっては、終戦記念日である。これに疑問を持つ人は、余りいないだろう。異論があってもせいぜい、終戦でなく敗戦記念日だ、というくらいか。振り返ると、1945年8月15日の正午、昭和天皇は、国民向けのラジオ放送(いわゆる玉音放送)を行なった。この放送により、国民はポツダム宣言受諾を知った。

しかし、終戦記念日とされてもよい日は、実は他にも候補がある。日本がポツダム宣言受諾を決定し諸外国に伝えたのは8月14日だし、天皇が読み上げた有名な詔書の日付けも8月14日である。又、東京湾のミズーリ号上で、日本代表が降伏文書に調印したのは9月2日だ。更に、戦闘停止命令が出された日や、実際に停止した日は8月16日以降であり、地域によっても異なる。

一般に、終戦など外交に関することは国内向けではないから、対外的に重要な8月14日とか、9月2日とするのが国際的には通例らしい。ではなぜ、日本の場合、終戦記念日が8月15日なのか。そして、それにはどのような意味があるのか。この本は、新聞、ラジオ、テレビ、歴史教科書などメディアの伝えた情報を掘り起こしつつ、その実情を探っていく。その結果、随分興味深い話が、色々と明らかになっていく。

終戦の記録に関しては、例えば有名な「終戦の放送に泣き崩れる女子挺身隊員」の写真を始め多くが、関係なかったりやらせだったようだ。又、「終戦記念日」の法的根拠は、終戦から随分経って、1963年に閣議決定された「全国戦没者追悼式実施要項」である。一方で、戦没者慰霊行事は、1939年8月15日にラジオで全国中継放送された「戦没英霊盂蘭盆会法要」にさかのぼる。そこから更に進んで、お盆と甲子園高校野球との関係にまで話は及ぶ。なぜ、高校球児は丸坊主なのか、など。

著者は、京都大学教育学部准教授。専攻はメディア史や大衆文化論である。この本は、序章から三章まで、次のような内容構成となっている。
序章  メディアが創った終戦の記録
第一章 降伏記念日から終戦記念日へ-「断絶」を演出する新聞報道
第二章 玉音放送の古層-戦前と戦後をつなぐお盆ラジオ
第三章 自明な記憶から曖昧な歴史へ-歴史教科書のメディア学

この本が書かれたのは2005年、終戦から60年目の年である。著者は、この時期にこの本を書く理由を、次のように述べている。「戦後60年が今まさに過ぎようとしている。10年後、戦後70年に『あの日は暑かった』式の回顧が体験者によって語られる可能性は少ないだろう。『あの日』ではなく、『あの日についての語り』の分析こそが、これから重要になるだろう」。

当然だと思っていたことが違っていた、という驚きがこの本にはある。その一つ一つが、更に次の話に繋がっていく可能性を持つ、そんな印象を持った。現代史は、面白い。

 輿論と世論―日本的民意の系譜学 (新潮選書) 言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書) 『キング』の時代―国民大衆雑誌の公共性

2012年10月10日水曜日

働く女性とマタニティ・ハラスメント

働く女性とマタニティ・ハラスメント―「労働する身体」と「産む身体」を生きる
杉浦浩美『働く女性とマタニティ・ハラスメント―「労働する身体」と「産む身体」を生きる』大月書店、2009

興味深い内容だった。多くの場合、女性の労働環境は良いとは言えない。本書が指摘するように、その改善を目指してきた近年の「平等化戦略」は、「産む身体」すら個人の選択という問題に解消しようとしてきたが、さすがにそこでは身体が悲鳴を上げることになる。にもかかわらず、さらにそうした悲鳴は、まだがんばれるかもしれない、自分で決めたことなのだから、という意見に陰に陽に押さえ込まれてしまうことで、時に悲劇も生まれる。

同時に、「産む身体」を全面に押し出す過去の方法は、権利の獲得にはつながる一方で、「労働する身体」を阻害し、結局女性の労働環境を改善し得ない。労働環境の改善の為の方策は、どうしても微細に展開される必要があるし、またそのありようこそが分析される必要がある。おそらく、身体もまた構築されているというバトラーの主張は、だからそれは幻想で、変更可能なのだというよりは、その変更可能性自体、それがどういうものであるのか、その身をもって遂行的に知るしかないということなのだろうと思う。

根本的な解決の道筋があるとすれば、労働と産む身体の対立図式を弱めた社会や組織を作り出していくということぐらいだろうか。残念なことに(というべきだろうか)、論理的に問いうるほど、労働と産む身体の対立は現在緊張状態にあり、だからこそ、研究も現実もおそらく解けない問題の中におかれてしまっている。だが、可能性としては、労働と産む身体は、そこまで究極的に対立し、緊張せずともいいのではないか。

もっと具体的には、シンプルな話で、例えば男性が産む身体の役割を担う(本当に産むことはなかなか難しいだろうが)ことであったり、上司が同じ経験を持つ女性であったりすることが重要なのだろう。本書が最後に指摘するように、問われるべきは「産む身体」というよりは、「労働する身体」の方にある。

どうして「そこまで」働かねばならないのだろう。多分次の問いは、この「そこまで」が具体的にどのように理解され、またジェンダーなり何なりに帰属させられていくのかという過程を記述していくことによって、働くということを解体していく作業なのだろうと思う。

われらゲームの世代・理論編7

シンクロの再解釈

とすれば、全体的な結論も少し変わってくるように思う。確かにシンクロの議論は、基本的に、虚構が現実を代理するとは考えない。シンクロするためには、連動する複数の世界の区分が必要となるからである。

しかしながら一方で、シンクロしている状況においては、虚構と現実の区分は限りなく曖昧になるともいえる。というのも、本来ならば関係のない世界である虚構と現実がシンクロする状態とは、通常の虚構と現実の関係に比べるとだいぶ特殊だといえるからである。そこでは、代理してしまっているというか、まさにくっついてしまっているという状態が想定される必要がある。

多分、ここで本当に問題となるのは、虚構は現実の代理となるかという問いではなくて、虚構と現実が関係を持つということの意味である。このあたり、虚構と現実の関係については、同時期に大澤(1996)が興味深い指摘をしている。そちらとつないだ方が、話が発展するように思う。

大澤によれば、現実は、常に虚構を必要とする 。というのも、現実が存在するためには、現実ではないもの(=虚構)が存在しなくてはならないからである。この区分があるからこそ、現実は現実としての価値をもつことができる。虚構なき現実は、結局虚構でしかないか、もっと端的にいえば、それは虚構ですらなく、完全な無である。

それゆえ、現実と虚構は対立するものではなく、むしろ補完関係を有しているといえる 。 視点は異なるものの、同様の指摘を西村を引き継いだ松田(2001)の議論にみることができる。松田は、西村の議論をふまえつつ、身体に焦点を当ててテレビゲームを考察する。そして、シンクロを「個人・主体」の身体を解体した後の新しい身体の萌芽だとし、そこに、脱物語化・脱主観化の可能性を見出している 。

つまり、松田は、虚構と現実から描き出されたシンクロいう状況を、僕たちの通常の認識枠組みといえる主観・客観という二項対立図式から脱する契機として捉えている。虚構・現実という二項対立図式もまた我々の通常の認識枠組みであるが、テレビゲームにおいてシンクロするとき、僕たちはこの対立を脱している可能性があるというわけだ。

増補 虚構の時代の果て (ちくま学芸文庫)  動物的/人間的 1.社会の起原 (現代社会学ライブラリー1) 夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)

2012年10月9日火曜日

われらゲームの世代・理論編6

若干の問題

とはいえ、もう一方の虚構が現実を代理できるのかという問いは残る。正直、この具体的な意味は取りにくい。虚構が現実にとって役に立つのか、ということだろうか。であれば、そもそも役に立たない、とは端的にいえないだろう。それゆえに、ここで議論されているのはもう少し違う意味だと思うが、西村は、それが「ゲーム」であると理解されている限り、つまりメタ・コミュニケーションが機能している限り、虚構が現実を代理するような事態、つまり侵犯することはないとする。

確かに、メタ・コミュニケーションが機能する限り、虚構と現実の区分は成立する。しかしここで問題なのは、そのメタ・コミュニケーションが機能しなくなる可能性である。西村の議論は、単純にメタ・コミュニケーションの存在を仮定するだけにとどまり、メタ・コミュニケーションが機能しなくなる状況を想定しているわけではない。

実際の問題として、メタ・コミュニケーションが機能しなくなる状況は存在するだろう。西村自身、香山(1996)が指摘した癒し効果の根拠を、テレビゲームはあくまで機械相手の遊びなのであって、そこではメタ・コミュニケーションが不要であるからだと主張している 。とすれば、虚構が現実を代理できるのかという問題に対し、代理できないと答える西村の議論には限界がある。

むしろ、虚構が現実を代理できるのかという問題に対しては、先のシンクロの議論を前提にして考察したほうがよい。考えてみれば、第一の問題であったテレビゲームの世界を生きるということが意味するのは、虚構と現実の明確な区分がなくなり、虚構の世界が現実になるということである。その場合、虚構の世界が現実を代理していることにもなるだろう。

西村は、おそらく、テレビゲームを旧来の遊び(特にごっこ遊び)と結びつけるために両者を区分し、メタ・コミュニケーションを議論したと思われるが、ここではその区分は必要はない気がする。なんというか、僕たちが理解する日常世界の一コマとしてのゲームは、もはや、侵犯があるかどうかを乗り越えている。


近代言語イデオロギー論―記号の地政とメタ・コミュニケーションの社会史 なぜヒトは旅をするのか―人類だけにそなわった冒険心 (DOJIN選書) コミュニケーションの社会学 (有斐閣アルマ)

2012年10月5日金曜日

われらゲームの世代・理論編5

虚構と現実のシンクロ

西村によれば、僕たちは、主人公と同化し、テレビゲームの世界を生きてしまうということはない。なぜならば、僕たちは絶えず、主人公のキャラとしてテレビゲームにおける物語の展開に参加しつつも、同時に、そのテレビゲームのプレイヤーとしてテレビゲームにおける物語の展開を制御し、コントロールしようとするからである。

西村は、この状態をシンクロ(同期)とよんでいる 。シンクロとは、テレビゲームの世界内とテレビゲームの世界外の連動を意味している。一方でテレビゲームの世界を生きてしまうようにみえながらも、一方でテレビゲームの世界に対して超越的な視点に立ってテレビゲームの世界で起こる出来事を観察し、分析しているというわけだ。

前者は、テレビゲームという虚構世界への没入であり、後者は、テレビゲームという虚構世界の支配と考えることできるだろう。シンクロでは、前者におけるテレビゲームへの没入と、後者におけるテレビゲームの支配を、交互に繰り返すといえる。

それゆえ、まず第一の問題については、肯定派・否定派ともに、問題の本質を捉えていないことになる。両者は、プレイヤーがテレビゲームの世界を生きることを前提として、その効果を肯定するか、否定するかについて議論してきたからである。

西村の議論をふまえるのならば、プレイヤーが純粋にテレビゲームの世界を生きてしまうことはない。あえていうのならば、プレイヤーは、テレビゲームの世界(虚構)とこちらの世界(現実)のはざまに生きることになるだろう。ちょうど帯にもそう書いてある。

電脳遊戯の少年少女たち (講談社現代新書)虚構世界の存在論 生と死と愛と孤独の社会学 (定本 見田宗介著作集 第6巻)

2012年10月4日木曜日

われらゲームの世代・理論編4

テレビゲームを捉える二元論

このように、テレビゲームを捉える視点としては、基本的にテレビゲームは「悪」であるのかという点をめぐって、否定派と肯定派の間で議論されてきた。この対立は、一見すると、どこまでも終わりのない平行線をたどるようにもみえる。

しかし、肯定と否定が用意されれば、やがて選択されるのは第三の道である。西村(1999)は、この両者が同じ認識を共有していると指摘する。西村が指摘する同じ認識とは、テレビゲームは、現実のシミュレーションであり、虚構としてのテレビゲームの世界を、その物語の主人公として生きるものだという認識である 。

テレビゲーム否定派は、虚構としてのテレビゲームを生きることを否定し、現実を保護しようとしている。この視点は、虚構(テレビゲーム)と現実の区別がつかない子どもたちという認識として、しばしば我々も耳にする。一方で、テレビゲーム肯定派も同じ認識を共有する。テレビゲーム肯定派は、虚構としてのテレビゲームを生きることを肯定し、現実において虚構としてのテレビゲームが果たす役割を強調する。例えばその一つが、先の香山による虚構を生きることを通じた癒し効果や学習効果である。

確かに、ゲームの世界を虚構のものと見なす限り、いつだってその嘘っぽさが問題となるだろう。それは事実ではないといわれることもあるし、あるいは、それも事実に役立つといわれることもある。だが、すでに僕たちも指摘してきたように、ゲームの世界は虚構としてあるわけではなく、ゲーム自体が僕たちの生活の一部だったことを思い出す必要がありそうだ。

ちなみに、西村は、この同じ認識の存在を指摘した上で、両者の議論においては2つの問題が混乱して残されていると主張する。2つの問題とは、一つは、我々は本当に主人公と同化し、テレビゲームの世界を生きることができるのかという問題であり、もう一つは、我々は本当に虚構で現実を代理できるのかという問題である 。この問題意識は、僕たちのそれとは少し異なるが、彼の議論をもう少しみていこう。


遊びの現象学 楽しみの社会学 交叉する身体と遊び―あいまいさの文化社会学