ラベル

2012年8月30日木曜日

生物と無生物のあいだ

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)
福岡伸一『生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)』、2007

 生命とは何だろう、という疑問は、誰でも感じたことがあるだろう。その疑問に、この本はかなり深く答えてくれる。しかも、話がとても興味深く展開するので、難しいのだが、つい引き込まれてしまう。高校「生物」の副読本などに、最適ではないか。

 1944年に、高名な物理学者シュレーディンガーは、「生命とは何か」という本を刊行した。本の内容は、生命現象は神秘ではなく、物理と化学の言葉だけで説明しうる、と主張するものだった。

 DNAの二重螺旋モデルが「ネイチャー」に発表されたのは、1953年のことである。その論文を発表したワトソンとクリックは、いずれもシュレーディンガーの本から、インスピレーションを与えられた、と言っている。まさに、シュレーディンガーの主張が成就したことになる。しかし、シュレーディンガーは、原子がなぜこんなに小さいのか、という問いもたてていた。

 原子が小さいとは、言い換えると、われわれの身体が原子にくらべると余りに大きいということだ。これは、生命現象を縛る物理的な制約の問題に関係する。原子はランダムな熱運動(ブラウン運動など)をする。しかし、原子の数が厖大な場合、個々にはランダムでも平均的には統計学的な法則に従う。「生命現象に必要な秩序の精度を上げるため、生物はこんなに大きい必要があるのだ。」とシュレーディンガーは考えた。しかし、すべての物理プロセスは、最終的に熱力学的平衡状態、つまりエントロピー最大の状態に到る。生命が、エントロピーに抗して、長い間生き続けることが出来るのはなぜか。シュレーディンガーは、ここで別の原理の存在は予測したが、具体的に示すことは出来なかった。

 その問題に関連して、まったく新しい生命観を示したのは、実はシェーンハイマーだというのが著者の見立てである。1930年代後半のこと、シェーンハイマーは重窒素で標識されたアミノ酸を三日間ネズミに与えて、その行く末を調べた。尿に27.4%、糞に2.2%、残りは体内に留まった。与えた重窒素のうち、56.5%がタンパク質に取り込まれていた。そして、ネズミの体重は変わらなかった。つまり、ネズミを構成していた身体のタンパク質の半分は、たった三日の間に食事由来のアミノ酸によって置き換えられた、ということになる。更に、タンパク質だけでなく体脂肪も又、同様の置き換えが行われていることが確認された。これは、崩壊する構成成分を先回りして分解し、エントロピーが増大する前に常に再構築を行っているということを意味する。

 「エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことである。」と著者は書いている。私たちが食事するのは、活動のエネルギーを得るためだけではない。身体を、同じ状態に維持するには、外部から材料を取り込まねばならない。著者は、シェーンハイマーが明らかにした生命の姿を、「砂上の楼閣」に例えている。砂の城は同じ姿を保ってそこにあるのだが、それを構成する砂粒はすべて時々刻々と入れ替わっている。

 著者は、シェーンハイマーの発見を再評価することで、改めて生命を定義する。「生命とは動的平衡にある流れである」と。そして、絶え間なく壊される秩序が、どのようにその平衡状態を維持しうるのか、その過程を追求する分子生物学者たちのチャレンジを、丁寧に紹介している。生命の話はすべて自分に戻るから、余計に面白い。

シュレディンガーの哲学する猫 (中公文庫) エントロピーから読み解く 生物学: めぐりめぐむ わきあがる生命 アインシュタイン選集 1 特殊相対性理論・量子論・ブラウン運動

バルタン星人と第9地区

先日いただいたバルタン星人をまじまじとみながら、何かに似ているなとおもっていたわけだが、そうかB級ホラー映画第9地区に出てきたエイリアンに似ていたのだったか、と思った。

ひらりん的映画ブログ

しかし改めて映像を見てみると、似てはいない。単にエビつながりか。

world movie collection
※17万8000円で売られている。

しかしブログをたどってみると、むしろストーリーに共通性があるという思いがけない発見があった。


晴れたらいいねー
「バルタン星人もいわば難民でした(笑)」
Men@Work
「何?円谷プロが作ったの?」


たしかに、バルタン星人も難民として地球にやってきて、第9地区も同様の設定だ。なるほど、そういうことだったのかもしれない。

2012年8月29日水曜日

われらゲームの世代50

ひとまずここまで。

ゲームのことでも思い出してみようと思って、6月ぐらいから毎日少しずつ書いてきた。ちょうどきりもよく?50までいったし、それからドラクエの話も一区切りついたから、ひとまずここで一休憩にしよう。以前コメントにもらった通り、漫然とつれづれ書いているだけでは、文章は決定的には良くならない。一度反芻するタイミングが必要だ。

それにしても、僕はどうしてゲームの話を書こうと思ったのだったかしら。そういえば昔ゲームをよくやっていたなぁ、という感覚がきっかけだったか。その上で、その感覚を今思い起こし、明日につないでみようと思ったのだったか。

書いていて思ったのだが、前半ののぶやぼあたりまでのシミュレーショントークはいろいろと発展があるように感じたが、後半のドラクエトークあたりはあんまり面白い展開ができなかった。それがなぜなのか、この辺りを考えてみると重要なアイデアにつながるかもしれない。

考えてみると、コーエーのシミュレーションはリアルの世界をうまく題材にしていた。だから、ゲームがそのままリアルにもつながりやすかった、そこで今現在にもつながりやすいのかもしれない。RPGは総じてゲームの世界として完結しているから、それはそれで面白いがなかなか今には生きてこないのかもしれない。昔読んだ小説を思い返し、今につなげようとしているという感じだろうか。

あともう一つ念頭においていたのは、リセット批判だった。リアルの人生をゲームのようにリセットできると思っている、と言われたわれわれについて、どうやって擁護しようかと思っていたのだった。一つには、そう思っているのは人間共通。更には、ゲームでもそう簡単にはリセットできない。そんな話をしてきた。

最後になってもう一つ思ったのは、むしろリセットできるよ、そう思った方が世の中もいいよということだった。確かに、ドラクエなどで、無謀と知りながら何度もボスキャラに挑戦し、やられるたびにリセットをして(しなくても強制的に繰り返されるのだが)、半分やけになりながらゲームを繰り返していたことがあった。

これは、大事なことだったのではないだろうか。リセットが押せないと思ってこの世界を生きていたら、ずいぶんと窮屈で慎重に生きていかなくてはならない。もっと自由に、最悪死んだって良いじゃないかぐらいで生きていった方が面白くないだろうか。いや、死んだら困るが、会社で怒られて給料が減るぐらいだったら、全然問題ないじゃないか。少しぐらいはリセットできるぜぐらいで、生きてみたらどうだろうかと思ったのだった。

まずはやってみる。やってみて駄目だったら、別の手を考える。リセット批判は、そうだ、そのぐらいの気持ちでやってみようというポジティブマインドに反転できる気がする。

ということで、ちょうど8月も終わる頃。

フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR) 7つの習慣―成功には原則があった! 金持ち父さん貧乏父さん

ウルトラマン他


いただきもの。ウルトラマンは最近のものらしく、いつの間にか青色になったり、かっこいい飾りがつくようになった。そういえば、どうして長らく赤一色だったのだろうか。もっと早くカラフルになっても良かったはずなのに。。。何かウルトラマンコードが設定されていたのかもしれない。

怪獣は昔ながらのダダとバルタン星人。最近はかわいくデフォルメされたりしているが、立体模型となるとさすが怪獣。奇怪なフォルムをしている。

2012年8月28日火曜日

われらゲームの世代49

ドラクエとは何であったのか

まだ続いているタイトルだから、こんな風に言ってしまうのは勝手な話だが、少なくとも僕にとっては、ドラクエはひとまず完結している。生きた伝説としてあるのはロトシリーズであり、伝説として失われつつあるのは天空シリーズであり、それ以降は多分知らない。

僕にとって、ドラクエとは何であったのか。この問いは、正直、僕にとってゲームとは何であったかのか、と問うているに等しいようにも感じる。それがもしなかったとしても、僕は僕なりの生活をしていたに違いないが、現実にはドラクエやゲームに夢中になったときがあり、その記憶が残っていて、それに伴う記憶もたくさんある。重要なキーワードである。

だがゲームという大きなくくりで言えば、ドラクエはある一時点での主役的役割を果たしたのであって、例えばその後はFF7の記憶が強いようにも思うし、女神転生もそうであったし、あるいは、のぶやぼやら三国志が力をもつことも確かである。ドラクエだけが特権的な地位にあったわけではない。

一方で、社会的にはドラクエの地位は特権的であったともいえる。それは知名度という点から言ってまちがいないはずである。もちろん、マリオやピカチュウのような存在もあるし、こちらはこちらで世界的ともいえるが、社会としてゲームの象徴として認識され、時にバッシングされてきたのは、ドラクエだったはずだ。

改めてドラクエとは何だったのだろうか。思い出話をこれまで書いてきて、ひとまずまとめようと思ったのだがこれ以上何も書けない。もっと細かく分解した方が良いのだろうか。スライムの絵を良く描いたとか、ドラクエ5ではレベル99まで上げてみたとか。

変な問いを立ててしまったということかもしれない。そもそもそれは何か、なんて考える必要はないのかもしれない。あの時楽しくて、今でも思い出せる。そしてあるいは、何かこの先役に立つかもしれない。それでまずは十分なのかもしれない。

日本人とは何か。―神話の世界から近代まで、その行動原理を探る (NON SELECT) 意識とはなにか―「私」を生成する脳 (ちくま新書) ゲームニクスとは何か―日本発、世界基準のものづくり法則 (幻冬舎新書)

2012年8月27日月曜日

われらゲームの世代48

天空シリーズ

ドラクエ3までがロトシリーズだとすれば、ドラクエ4から6は天空シリーズと言われていた。だが、少なくとも僕には、天空シリーズのつながりはよくわからない。確かに、ドラクエ5までは天空ネタがいろいろあったように思う。だが、この辺りの接続は正直記憶としても曖昧で、調べてみたがやっぱりよくわからなかった。一応、6→4→5という流れではあるらしい。

6に至っては、ゲームそのものの記憶がほとんどないのでどうしようもない。伝説は忘れられていくものである。それを誰かが、あるいは掘り起こすかもしれない。天空シリーズとは、要するにそういう話だったような気もする。ドラクエ4で華々しく描かれる天空の世界は、確かドラクエ5では崩壊しており、蘇らせなければならない(しかしこの辺りは本当にwikiに詳しい。誰がまとめてくれているのだろう。)

ドラクエ5はストーリーが斬新だったことは覚えている。ロトシリーズの壮大な展開とはまた違い、それから4の仕組み化されたストーリーとも違い、人の一生を描いているという点で斬新だった。幼少期、青年期、それから親になるところまでが全てゲームの中にある。しかも、主人公は勇者ではない(王子ではあるが)。

ただ、全体的にストーリーが暗いので、あんまり繰り返してやりたいとは思わなかった。この暗さは、女神転生や後のFFのダークさとは違う。なんというか、切なさが残るという感じだろうか。

あと、そういえばドラクエ6は、実は僕が昔書きたいと思っていたゲームの世界観そのものだった。ゲームの中身は覚えていないが、二つの世界がパラレルに併存しながらストーリーが展開するというのは、あぁ、子供の頃そんな話を考えていたよ、と思った記憶がある。語っても良いが、それはまた別のところでやった方が良いだろう(次のネタが見つかったかもしれない)。

ドラゴンクエストV 天空の花嫁―プレイステーション2版 「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書) 五分後の世界 (幻冬舎文庫)

2012年8月24日金曜日

われらゲームの世代47

デスピサロ

そういえば、ドラクエ4は、魔物側にもストーリーが用意されていた。それまでのドラクエが勧善懲悪型であったのに対して、ドラクエ4は必ずしもそうではない。

魔物の総大将となるデスピサロは、最初から悪だったわけではない。むしろ、彼らは被害者の側であり、人間による虐待を通じて、魔物の総大将として勇者に対峙することになる。この展開は、後にドラクエ4がPS2かなにかにリニューアルされて移植された際、デスピサロがゲームクリア後に仲間になるという設定へと発展した。

いつの間にか、RPGは複雑なストーリーを持つようになったといえるかもしれない。とはいえドラクエ5になるとこの手の複雑性はないような気もするから、ドラクエ4だけの特徴だろうか。他のRPGを見た場合には、比較的この手合いは多いだろう。ファイナルファンタジーはもともとその色彩が強かった(FF3では、光の戦士の前には、光が暴走して闇の戦士がそれを鎮めたという設定になっている)し、女神転生ともなれば、主人公自身がカオスかロウか、それともニュートラルかを選ばねばならない。それぞれに正義がある。

デスピサロとの最終戦は面倒な話で、一体いつ終わるのだろうという気にもなったことを覚えている。右手がなくなり、左手がなくなり、顔がなくなり、と思ったら新しいからだが現れていく。最終戦を演出することは当然大事なのだけど、この辺りの案配は難しい。特に、倒したと思ったところで何度も復活されると勘弁してほしいと思う。

ドラクエは、最初から最終戦が凝っていた。初代竜王ですら、一度目は化身であり、倒したあとにもう一度倒さねばならない。ハーゴンも倒すとシドーが現れる。ゾーマも多分その手合いだっただろう。ドキドキ感と驚きはもちろんあったが、やりすぎは困る。


ドラゴンクエスト ソフビモンスター 4 デスピサロ ドラゴンクエスト ソフビモンスター 3 りゅうおう・変身後

2012年8月23日木曜日

われらゲームの世代46

コンピュータのフレーム問題

AIの限界は、しばらく前にフレーム問題として知られるようになった。有名になったのは、デネットによるロボットによる時限爆弾回避のエピソードぐらいからだろう。

AIを搭載したロボットが燃料が置かれている部屋に入り、その燃料を回収して部屋から脱出する。ところが燃料には時限爆弾が設置されており、それを取り除いて燃料を回収しないと、爆発してしまう。

一回目のロボットは、燃料をとってこいとだけ指示されていたため、時限爆弾ごと持ってきて爆発してしまう。二回目のロボットは、時限爆弾を含むすべてのリスクに対応するように指示されていたのだが、そのリスクを数え上げているうちにタイムリミットとなってやはり爆発してしまう。三回目のロボットは、直接関係のないリスクは無視するように指示されており、そもそも動かない。何が関係のないリスクなのかを計算していたからである。ロボットは動かないまま、時限爆弾は爆発する。


フレーム問題 wiki


僕たち人間は、無意識のうちにフレーム(枠)を設定している。何を考える必要があり、何を考える必要がないのか、思いがけないことが生じたときに何を呼び起こし、どう対応すれば良いのか。しかしAIにはそれがない。人がフレームを設定してやらねばならないのだが、とたんに、フレーム外の出来事、時限爆弾が置かれている可能性を読み込むことができなくなる。それではというわけで、フレーム外についても数え上げるように指示する。すると今度はそちらが無限のプロセスとなってしまい、AIは機能しなくなる。

AIは律儀にすぎ、人はいい加減にすぎる。けれども、この人のいい加減さが、人の意思決定を可能にしている。なんとも皮肉な話だが、僕たちは不完全な意思決定しかできないけれど、もし完全な意思決定をしようとすれば、とたんに僕たちは意思決定できなくなってしまうというわけだ。

コンピューター技術の発展は驚くべきスピードだから、そのうちなんとかなるのかもしれない。チェスや将棋では、ブルートアタックで選択肢のすべてを強引に数え上げ、完全な意思決定を目指すことができるようになってきたとも聞く。そうかもしれないが、それはフレーム問題の一つの問題、量的な処理を解決するにすぎず、まだ別の問題が残っている気もする。

心はどこにあるのか (サイエンス・マスターズ)解明される意識 生きていることの科学 (講談社現代新書)

2012年8月22日水曜日

30代が覇権を握る!日本経済

30代が覇権を握る! 日本経済 (PHPビジネス新書)
冨山和彦『30代が覇権を握る! 日本経済 (PHPビジネス新書)』、2012

30代として買ってみた一冊。30代が覇権を握る論理や方法を説明しているのかと思ったが、まったくそうではない。30代が覇権を握れるように、今の偉い方々に社会を変えてもらおうという内容であった。提案はありがたいが、それは無理でしょう。

昔は年寄りは死ぬものだったから、まあ世代交代はスムーズだった。ところが最近は死ななくなったし、むしろ老いてますます盛んなりというところで、なかなか旧来の社会システムが維持できなくなっている。ここでは、いかに世代交代を促進させるかというアイデアと、むしろ現状の社会の在り方を前提として、新しいやり方をどうやってみつけるかというアイデアを考えることができる。

一つ目の世代交代の促進は、正直難しいと思う。まず、偉い方々にやってもらうのは無理である。若い方がやるとなると、革命という手を狙う必要があり、こちらも難しい。となるともう一つの方法ということになるが、まあ現実的なのはこちらであろう。もう少しいうと、それでも人は不死ではないから、どこかで世代交代は起こる。旧来のように、世代が一つずつ動く(親から子へ)ではなく、大きな資産は世代を飛ばして動く社会を考えたらどうだろうか(祖父母から孫へ)。

実際、たぶんわれわれの親が持つ資産は、子供に移るというよりは、たぶん飛ばして孫に移るだろう。それでいいと思う。これを前提として、僕たちが何をなさねばならないのかを考えよう。僕たちが60ぐらいになった時に、子供に支えてもらえるような仕組みを考えていけばいいのである。

新左翼とロスジェネ (集英社新書 488C) 挫折力―一流になれる50の思考・行動術 (PHPビジネス新書) 会社は頭から腐る―あなたの会社のよりよい未来のために「再生の修羅場からの提言」

われらゲームの世代45

いろいろやろうぜ

AIはその後のドラクエにも搭載され続けるが、そうそうに「めいれいさせろ」というコマンドが追加されることになった。これはAIを使わずに自分で操作するというわけだから、ドラクエ側でもAIの限界を認めたことになる。

「めいれいさせろ」をふくめ、AIにはいくつかのルーチンが用意されていた。通常時は「みんながんばれ」、MP消費お構いなしでいくときは「がんがんいこうぜ」、それからダンジョンなど遠出する場合には「じゅもんをつかうな」といったいくつかの選択肢があった。

通常は「じゅもんをつかうな」か「いのちをだいじに」にしていた気がする。ところがあるとき、何かの雑誌で「いろいろやろうぜ」を使っているとAIが学習するという記事を読んだ。それまで、いろいろやろうぜはほとんど使ったことがなかったのだが、なるほどと思って使うようになった。

たしかに、いろいろやってはくれる。けれども、学習はしない。よくわからないけれど、やった結果が蓄積されるという機能はほとんどなかったのではないかと思う。とにかくザラキを使うという暴挙しか記憶にないが。

それからいろいろやろうぜが推奨されていたのは、まさに特殊キャラであるはぐれメタル戦だった。はぐれメタルは防御力が異常に高く、基本的に1ポイントしか与えられないか、ノーダメージである。そのくせ逃げ足が早いので、なかなか倒すことができない。このさい、聖水を道具で使うと、確実に1ポイントダメージを与えることができた。

いろいろやろうぜにしておくと、聖水を使ってくれる可能性がある。確実に1ポイントあててほしいのである。ところが、やっぱり学習しない。聖水を使ってほしいのに、別のことをする。さらに、そもそもはぐれメタルを攻撃せずに他の雑魚に攻撃を仕掛けたりする。ルーチンに「はぐれメタルをたおせ」も入れておいてほしかった。

コンピュータと認知を理解する―人工知能の限界と新しい設計理念 マッチ箱の脳(AI)―使える人工知能のお話 IBM 奇跡の“ワトソン”プロジェクト: 人工知能はクイズ王の夢をみる

2012年8月21日火曜日

われらゲームの世代44

ドラゴンクエスト4

ドラクエ4は、史上初(多分)の章構成になっている。まるで本のようだ。とても新鮮だったし、これを真似て、以降章立てになっているRPGがたくさん作られた。第5章「導かれし者たち」が本章となっており、第5章につながる形で各章ではそれぞれ主人公が変わる。

もう一つ特徴だったと記憶しているのは、AIの導入である。これまではキャラクターすべてにコマンドで指示を出せていたのだが、ドラクエ4では第5章から主人公以外は操作できない。大まかな方針を与えるだけで、後は各自がAIのもとで戦うことになる。当時はじめてAI(人工知能:Artificial Intelligence)なる言葉を知り、そんなにすごいものがゲームに搭載されるなんてと思った。

しかしまあ結果として感じたことは、AIってたいしたことないなということであり、やっぱり人の方が賢いよなということだった。この感覚は、僕にとってはかなり大きな意味を持っていた。

当時、多分中学生ぐらいだったと思うが、僕にとっての理想はコンピュータであり、一種の機械だった。冷静に、客観的に、与えられた計算結果をはじき出す。できるだけ主観を省き、人間的な感情に流されず、的確に判断する。いかにしてそうした状況を実現するのかが大事だと思っていた。

AIはその理想形態のように感じていたわけだが、これが信じられないほど使えない。ベホイミを使うべきときに使ってくれなかったり、逆に突然薬草を使ってみたり、効かないザラキを使ってみたり。特に特殊キャラといえるメタルスライムやはぐれメタルを相手にする際にはこの手のAIは本当に始末が悪かった。

もちろん、もっと高度なAIならば、違うのかもしれない。いまであれば、もっと違うのかもしれない。しかし、当時の僕にとって、AIとはドラクエ4のそれである。やっぱり人間は大したものだと見直したのだった。


ドラゴンクエストIVのあるきかたコンピュータには何ができないか―哲学的人工知能批判パーセプトロン

2012年8月20日月曜日

われらゲームの世代43

そして伝説へ2

ゲームの中で伝説が生まれるとともに、そこまで大げさではないにしても、僕の記憶の中でも、このゲームは一つの伝説になった。そう考えると、ドラクエ3のサブタイトルはダブルミーニングである(ダブルミーニングという言い方が正確かどうかは知らない。昔、バンプのシークレット音源に収録されていた会話のやり取りで、歌詞がダブルミーニングとかトリプルミーニングとかいう話があって、それがなんだかかっこいいと思ったのだった。ようするに、意味が二重になっている。)

だが、普通ダブルミーニングというと、雨と飴、雲と蜘蛛といった言葉遊びをいうと思う。これに対して、そして伝説へというタイトルが示唆するダブルミーニングとは、作品の中と作品の外にかかっている。単に2つの意味があるというよりは、2つの世界にまたがっていると言った方がいいかもしれない。

この手の話は、そういえば宮台真司氏がどこかで書いていた記憶がある。演劇を見に行った際、小道具として用意されている花瓶が、演劇前の準備中に倒れてしまうということがあった。実は、その花瓶は演劇中にも劇の一部として倒されるストーリーになっており、更にそれに関連して、倒れた花瓶に言及する台詞が何度か用意されているという形になっていた。

そのため、演劇の中で倒れた花瓶への言及がなされるたび、それが劇の中の世界の出来事をいっているのか、それとも劇の外の世界の出来事を言っているのか意味が二重になった。これがとても面白かったという。

そこで劇が終わったのちに、宮台氏は監督に対して、準備中に花瓶を倒したこと自体も演出だったのかどうかを尋ねた。監督はそれは偶然だと言ったという。これに対して、宮台氏としては、意味の二重性を狙ってわざとやったのだと言ってほしかった、と書いてあった気がする。

ドラクエ3のサブタイトルがどこまで狙ったものだったかはわからない。しかしいずれにせよ、そして伝説へというとき、それがロトの勇者をさしているのか、それとも僕にとってのドラクエをさしているのか、それがゲームの世界の話なのか、それともゲームを遊んだ僕の世界の話なのか、両義性を帯びている。

COSMONAUT [DVD] 社会システム理論: 不透明な社会を捉える知の技法 (リアリティ・プラス) M2:思考のロバストネス

仕事するのにオフィスはいらない-ノマドワーキングのすすめ

仕事するのにオフィスはいらない (光文社新書)
佐々木俊尚『仕事するのにオフィスはいらない (光文社新書)』、2009

 週に一度、ある曜日を「どこでもオフィス」という日にして、その日は会社に出社せず、どこで仕事をしてもよい、としている会社があるそうだ。勿論、出社してもよいが、家でもどこでも、仕事を進めればよい。これは、ネット環境が整備されて、必ずしもオフィスに居なくても仕事が出来る時代になったことが背景にある。

 この本では、そうした仕事スタイルを「ノマドワーキング」として紹介すると共に、今後更に広がると予測している。「ノマド」とは、本来は砂漠の遊牧民のこと。フランスの思想家のドゥルーズとガタリが、1970年代に新しい人間の生き方として提唱(個々人が会社に頼らず、自分の意志と裁量でさまざまな人とつながって仕事をこなすイメージらしい)、そして2007年になって、イギリスの経済誌「エコノミスト」が「ついにやってきたノマド時代」という特集を掲載した。ネットで調べると、日本では2009年にこの本が刊行された後、新しいワークスタイルということで、ある程度話題になっているようだ。

 著者によれば、「ノマドワーキング」を実践する人たちとは、「個人としての矜恃を持ち、自宅やカフェや外出先などで、テレワーク的な仕事をこなす独立独歩な人たち」、「能動的に行動し、何のために仕事をしているかという価値観をしっかり持って、新たなワークスタイルを実践している人たち」であるという。核心は、セルフコントロールが出来る人たちということのようだ。そして、このコントロールのためのノウハウの紹介が、本の中心になっている。

 如何にして注意を持続集中して、仕事を上手に進めるか、どのように大量の情報をコントロールするか、又、個人で行動しつつ、どうやって人と共同作業をするか、それらを、著者は丁寧に解説している。BGMで作業のリズムを作る方法とか、どこで作業を中断するとよいかとか、情報のアクセスの工夫とか、細かな知恵がこの本にはぎっしり詰まっている。ITスキルは不可欠として、クラウドやグーグルサイト、スカイプの利用など、多くのツールが紹介されている。私は、グーグルサイトやクラウドをもっと使おうと思ったし、蔵書管理の方法など興味津々だった。

 ノマドにしろ会社勤務にしろ、セルフコントロールが今後ますます重要になることは確実だ。そして、何より著者自身がセルフコントロールの出来る人なのだ。この本には、著者の現在の仕事量が書かれていて、正直、感動する。伝授されたノウハウを、役立てたい。 

千のプラトー―資本主義と分裂症アンチ・オイディプスアンチ・オイディプスの使用マニュアル

2012年8月18日土曜日

若干のデザイン変更

たいしたことではないが、フォントサイズなどを変更した。元々文字が少し小さすぎるかなと思っていたのだが、やりかたがわからなかった。他のブログではそうした機能が当然搭載されていることを知り、検索して調べた結果である。

一応どうやったか備忘録がてら記録しておくと、以下の通り。

1.まずログイン。
2.Blogger左メニューの「テンプレート」を選択。
3.ブログで使用中のテンプレートの「カスタマイズ」を選択。
4.テンプレートのカスタマイズ画面になるので、さらに「アドバンス」を選択。
5.細かい設定項目が出てくる。「ページ」項目でフォントとサイズを選択。
6.完了。

2012年8月17日金曜日

われらゲームの世代42

そして伝説へ

ドラクエ3のサブタイトルは「そして伝説へ」である。当時はその意味など知る由もなかった。勇者オルデガの息子としてアリアハンを出発し、世界地図を模した世界中を旅をし、ジパングも回り、そして悪の司祭バラモンを倒して帰国の途につく。

世界を制覇し悪の司祭を倒したにもかかわらず、倒した時点ではエンディングも始まらず、いつもとは何か違う雰囲気の中でアリアハンへと戻る。そこで、真の敵ゾーマの存在を知るのである。そして、ここから伝説が始まる。新たに飛ばされた異世界こそアレフガルドの世界。あぁ、ドラクエがつながった、と感じる瞬間だった。

僕たちの世代こそ、きっとドラクエ3の世界を堪能したに違いない。もっと上の世代であれば、そうそうに答えを知ってしまっていただろう。逆に、下の世代であれば、その意味がよく分からなかったに違いない。僕たちの世代は、何が伝説なのかをゲームの展開とともに理解することができた。

勇者ロトとは何であったのか。その答えは最後の最後でわかる。そして伝説へという言葉が何を意味していたのか、それを知るのはエンディングの瞬間である。この驚きに匹敵するのは、マザー2ぐらいだろうか。あぁ、そういうことだったのか。そう思うのだ。

ロト3部作といわれる1、2、3は、まさに3をもって完結する。一体、どこでこのストーリーが練られていたのだろうか。最初から3の完結編が考えられていたようには思えない。ネットでざっくり探してみたが、さすがにこのあたりの内幕は見つけられなかった。しかしいずれにせよ、名作とはこういうゲームのことを言うのだと思う。ゲームそのものの完成度、さらにはゲームを通じての記憶を僕たちにいつまでも喚起させてくれる。

ドラゴンクエスト25周年記念 ファミコン&スーパーファミコン ドラゴンクエストI・II・III 公式ガイドブック (SE-MOOK)ロトの紋章‾紋章を継ぐ者達へ 1 (1)ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章‾紋章を継ぐ者達へ‾ 6 (ヤングガンガンコミックス)

2012年8月16日木曜日

われらゲームの世代41

ドラクエ3

一気にドラクエの最新版まで行ってしまったが、元に戻ろう。ドラクエ2まで話をしたから、順番としては今度はドラクエ3である。このゲームはドラクエシリーズの中でも特に印象深い。ちょうど年齢的にRPGを遊び倒せるようになったということもあるだろう。ここからドラクエ5までが、僕にとってのドラクエ時代のように思う。

ドラクエ3では、自由にパーティが組めるようになり、それから例の復活の呪文がなくなった。冒険の書にほ記録できるようになったのだった。ただこれはこれでくせ者で、カセットを落としたりすると、冒険の書が消えてしまうことがあった。僕自身は長らくこの問題に直面することなく、友人が消えてしまったというたびに、本当かなぁと思っていた記憶がある。

数年経って、どこかで僕自身も冒険の書が消えてしまう事があった。呪われてしまったときにかかる音楽がなり、冒険の書が消えてしまった、か、冒険の書がありません、か、そんなことを言われてしまうのだった。あぁ、これか、と思った。

転職というアイデアが盛り込まれたのもドラクエ3からだ。4ではなくなるが、その後復活し、ドラクエ定番の仕組みになった。ダーマの神殿に行って、レベル20ぐらいから転職ができる。賢者が隠し職業になっていて、限られた悟りの書を使うか、遊び人からしか転職できなかった。遊び倒してこそ悟りが開ける、というメッセージだったのだろうか。考えてみるとゲームらしい。

もっとも、当時のライバルというべきFFはすでにジョブチェンジの仕組みを持っていたから、それを真似したといえるかもしれない。ドラクエとFFは当時からいろいろと差別化したり、模倣したりと切磋琢磨していた。そういえば、FFには復活の呪文もなく、最初から冒険の書形式だった。さらに、ドラクエは教会かどこかに行かなければセーブができなかったが、FFはフィールド上であればどこでもセーブができた。ダンジョンでもセーブポイントではセーブができたような気がする。

ドラゴンクエストIII そして伝説へ・・・ 150ピース ジグソーパズル

2012年8月15日水曜日

物書きについての覚え書き

先ほど貴重なコメントをTwitterでいただいたので、忘れずに記録しておこう。

 1.物書きを目指すなら、Be original, 物真似は幾ら上手でも2番煎じ
 2.他人が見向きもしない素材モチーフこそ、金の卵
 3.書き始めてそのまま突っ走って仕上げては駄目、寝かせて熟成させよ。

1と2は、オリジナルの重要性を説くという点でそのとおりであろう。
特に興味深いのは3である。

思い当たる点は多い。とりあえず書き始めてみる。 書いていくとうまくいけば分量も増えていくのだが、 そのままではせいぜい7、8合目までにしか到達できない。 本当にうまくいくときには、7、8合目で、何か全く新しい発見があるものだ。 その発見を受け入れて、もう一度まとめ直す。 これで文章は初めて山頂に到達できる。

いくつかのポイントがあることがわかる。

 1.まずは書き始めることができるかどうか。アイデアのまま、書けずに終わってしまうことのなんと多いことか。
  2.7、8合目まで登ることができるかどうか。途中で力尽きることも多い。
  3.7、8合目で、「何か」を発見し、新しい文章の方向性を見いだせるかどうか。ここが平凡と非凡を分ける。
  4.新しい文章の方向性ですべてをまとめ直せるかどうか。時間がないということもある。

だいたいこんなところだろうか。 7、8合目まで進むことができたらならば、一度立ち止まり、すなわち熟成させることができるようになる。 それで何かを発見できるかどうか、これについては別の能力が必要かもしれない。 あと、一応付け加えておくと、そのときの山頂は、あくまでそのときの山頂であって、 登ってしばらくすれば、向こうにもっと高い山頂を見いだすことになるだろう。

ファミコンの思い出

ファミコンの思い出
深田洋介編『ファミコンの思い出』ナナロク出版、2012

ゲームネタを続けていると、やはりゲームの情報が集まるようになる。読むためには、書かねばならない。このホームページの標語の通りだ。

本書はどうやら投稿型ホームページに集められたファミコンの思い出についての記事をとりまとめたものらしい。ファミコンの発売当初からスーファミがでるまでの10年弱について、タイトル毎の投稿記事を紹介している。


オリジナルのHPはこちら⬇
思い出のファミコン
編者のHPはこちら⬇
深田洋介のホームページ


共感できる投稿が多く、そうそうと思わされる。思いがけず親が熱中していたり、思いがけずリセットしてしまったり、思いがけず良作を発見したり、ゲームと僕たちの日常が強く結びついていた、というか一体であったことを改めて気づかされる。

忘れていたタイトルの記憶もよみがえる。おばけのQ太郎のワンワンパニックなんて記憶の彼方に落ち込んでいたけれど、この本を読んで思い出した。ガウガウ砲とかなんとか、へんなことでみんなで盛り上がっていたのだった。

1タイトル2頁まで、投稿の数も厳選されており、平準化されている。これはこれで面白いが、ドラクエなどは当然投稿の数も多いはずだ。その中には、もっと面白いものもあるのだろうし、自分自身のHPとの比較でいえば、一人の歴史をゲームで語ることも当然できるだろう。

いろいろなホームページがあり、また面白いことをしている人が世の中いるものだ。改めてモチベーションがあがった一冊だった。この出版社から僕のゲーム史も書籍化してほしい。編集もできればしてもらって。。

ふぁみ中 青春ファミコン劇場\'80 (ローレンスムック)ふぁみ中 青春ファミコン劇場 激闘編 (綜合ムック)ファミ通DVDビデオ ファミコン生誕20周年記念 ファミコンのビデオ

われらゲームの世代40

ドラクエはどこまで遊んだのだろう

そういわけで2012年の今年、ドラクエ10が発売されたわけだが、考えてみるといつの間にかドラクエも遊ばなくなった。今ではほとんどゲームをしないが、もう少し前から、ドラクエを買わなくなったように思う。いつまで僕は遊んでいたのだろう。

内容をある程度思い出せるのはドラクエ5ぐらいまでである。ドラクエ6も少し記憶があるから、何らかの形で遊んだのだろう。ドラクエ7というのもやった事があるような気がする。だが、少なくともここまでである。ドラクエ8以降というのは全く遊んだ事がない。

以前にも書いたが、昔の事の方がよく覚えていて、最近の事はほとんど覚えていない。それだけ印象が薄かったという事だろう。あるいは、他にいろいろとやらなければならない事が増えてきてしまい、印象が相対的に薄まっているのかもしれない。

しかし中学高校の頃は学校から帰ってからしかゲームができなかったが、大学の頃であれば一日中家に籠ってゲームをするという事もできたはずだ。実際、1週間分食糧を買い込んでゲームをする、といった人の話は何かの記事を見た事があるし、僕だってそういう生活ができたのではないかと思う。徹夜でゲームをするような事もあったのではないだろうか。

当時、僕自身がどういう風にゲームをしていたのかすら、全く思い出せない。状況的にそうした集中的な遊び方が可能であり、またこうしてゲームが好きだった事を考えれば、徹夜で1週間のような遊び方をしていたとしても何ら不思議はない。けれども、何度も繰り返して言えば、何も覚えていない。懐かしさも感じないし、当然、あの頃のゲームは面白かったという感覚もない。

そう考えると、ゲームの楽しさは、ゲームそのものの楽しさではなかったという事のような気がする。確かに、ゲームは楽しかった。けれども、それがこうして今の僕につながっていて、それを思い出すことができて、あれやこれは語ることができるためには、ゲームだけではない、むしろゲームを取り巻く別の関係が必要だったのである。

他の人は知らない。ゲームそのものだけを覚えてる人もいると思う。けれども、少なくとも僕はどうやらそうではないらしい。ドラクエ6以降の記憶がほとんどないのは、もしこれらのゲームを僕がやっていたとしたら、それは一人で家に籠って徹夜でやっていたからなのだろう。

アルティメットヒッツ ドラゴンクエストVI 幻の大地アルティメット ヒッツ ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち

2012年8月14日火曜日

われらゲームの世代39

そういえば新しいドラクエ10は・・・

そういえば先日新しいドラクエ10が発売になったのだった。初のオンラインということもあり、別にやる気もない。周りでやっている友人も聞かないが、知人の知人といったところでは一部流行っているらしい。いつの間には、僕は時代遅れになっているともいえる。

これまでの話とのつながり思い出したのは、死んでしまったらどうするという話だった。その知人がいうには、オンラインのドラクエ10でも死んでしまったりするらしい。ところがオンラインゲームである以上、パーティは本当に個別の人たちの集まりであり、そこでは利害が衝突する。しかも、パーティの組み方が適当だったりするので、僧侶がいなかったりする。そうすると、死んだキャラは放っておかれたりして、結構不便になる。

死んだままになっているキャラがフィールドにあちこち転がっていて、みんな僧侶の助けを求めているのだ。「僧侶さまー」「誰か助けてぇー」といった吹き出しがでているらしい。どういう雰囲気かまったくわからないが、勝手に想像したらおかしくておかしくてしょうがなかった(本当にこの辺りはイメージで言っているので、間違っているかもしれないがひとまずネタとして)。

オンラインゲームならではという感じである。孤独で一人でやっていて問題視されていたRPGは、いつの間にかソーシャルなゲームになった。見ず知らずの人とふれあい、目的を共有できるようにさえなった。だがそれは同時に、通常の世界で起っていた人間関係の煩わしさや、それから利害の衝突のようなものをきっとゲームの中に埋め戻してしまったのだろう。

死んでしまっても生き返れるのは、それでもゲームの世界ならではというかもしれない。けれども、マリオブラザーズの裏切りよろしく、それで人間関係は一気に悪化する。よくわからないが、ツイッターのようにブロックリストに載せられてしまったりするのかもしれない。

ドラゴンクエストX Wii本体パック (RVL-S-KABR)

2012年8月13日月曜日

われらゲームの世代38

ウィザードリィ

しかしこの手の「しらべる」系で一番大変だったのは、ウィザードリィというゲームだろう。ウィザードリィは、元祖RPGとも言われる最も初期からあったRPGである。立体ダンジョンをとにかく歩き回るというゲームであり、その仕組みは、直接的には女神転生に引き継がれている。どことなくゲームのダークな雰囲気も似ているかもしれない。

最初の頃のウィザードリィは、マップがシンプルな輪郭だけで描かれていた。どれが壁なのかよくわからなかったりする。にもかかわらず、壁を調べないと隠し扉がみつからないのだ。ある程度能力が高かったりすると、「壁に何かある」といったヒントコメントが出るには出るのだが、正直極悪である。

さらに始末の悪いことに、隠し扉が見つかっても、それが大事かどうかが分からない。なにやらたくさん扉が見つかるような場所もあるのだが、単にぐるぐると回って元に戻るだけという場合も少なくない。この点、ドラクエは良心的であり、「しらべる」コマンドによる発見物の重要度は高かった。

ウィザードリィも、僕は自分ではもっていなかった。中学生の頃、部活の友達からウィザードリィ2と3を同時に借りて遊んだ。例のごとく、というか、このところにはずいぶんとゲーム能力が上がっていたはずだが、クリアできなかった。いや、正確にいえば、ウィザードリィには終わりがない。エンディングもマルチエンディングもなく、延々と宝探しがつづくのである。形式的なクリアだけならば、レベルが20位の頃には達成できてしまう。けれども、そこからが本番だ。レベルを100に、200に、300に上げていくのである。

ウィザードリィの難易度の高さは折り紙付きだった。まず、当時はオートセーブという仕組みが採用されており、万が一死んでしまった場合、ぱっとリセットしてやり直すということができなかった。死んだら死んだままである。しかも、ドラクエの様にお金が半分になるけれど本拠地にもどって「死んでしまうとはなさけない!」と言われるわけでもない。死んでしまえば、そのままダンジョンに放置されるのだった。

死体を拾いにいかねばならない。せっかく育てたキャラクターはもちろん、せっかく手に入れた武器や防具、財産が捨て置かれたままになっているからである。そのためには、新しいキャラクターを作成し、その場所にまでいけるレベルに上げ直し、そして、救出に向かう必要があった。けれども、時間がかかりすぎてしまうと、死体はモンスターによって荒らされて本当になくなってしまう(という設定だった気がする)。一回一回の戦いが、深層部に行けば行くほどリアルだった。

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